◆11月11日南区の歴史体験で光明池を尋ねました。光明池は面積36万㎡外周8㎞で堺市と和泉市とにわたり、1931(昭和6年)から5年間をかけて農業用ため池として造られた。工事には当時日本の植民地であった朝鮮半島から仕事を求めてきた300人近い朝鮮人が従事し危険な作業の中で10数名の犠牲者がでたとの事、石碑は工事で亡くなった朝鮮人労働者を慰めるため建立されています。(掲示板より)
光明池の水は光明の滝(国分町)付近の槇尾川から取り入れられており大阪府内でも最大を誇る大きさです。
1975(昭和50年代)に入って、本堤防からの漏水や水供給の要である取水塔や放水路の著しい老朽化や上流域の宅地開発などに伴い流入する水量が増大するといった問題を抱えるようになり、このため1977(昭和52年)から1985(昭和60年)にかけて、本堤防の補強、余水吐(除:よぎ,よげ)の改修、取水塔の改築を目的とした昭和の大改修が行われました。(水土里ネット光明池より)
光明池の余水吐(除:よぎ,よげ)は甲斐田川の源流となって「イオン」の横を通り鴨谷グランドを豪雨時の一時避難プールとして泉北高速鉄道の下を暗渠として和田川に合流しています。
◆光明池守護神社
本堤防の東側の余水吐(除:よぎ,よげ)の近くある光明池守護神社は本堤防の改修に向けて調査中にこの地に三神が祭られていたことがことが明らかになりました。これは昭和初期の光明池築造の時に守護神として造営されたと見られその後、風雨にさらされ荒廃し痕跡を残すのみとなっていたもので、本堤防の改修に合わせて1984(昭和59年)に再建築造されました。さらに、2005(平成17年)には神殿の改修が行われました。(水土里ネット光明池より)
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