真夏の結婚式で思ったこと

 今回は私ごとを述べます。 今風?に言えば、アラセヴンティの私です。われわれ世代は兄弟姉妹が多く、必然的に長子と末っ子ではかなりの年齢差になる。小生の場合長子は昭和5年から末っ子は昭和25年。育った世相は軍国華やかな者から戦後団塊の世代まで。それらの子供たち即ち甥姪達の年齢は50半ばから20歳まで姻族も含めると30余人もいる。職場を卒業して10年余。職場の人たちの結婚も含めて毎年の様に複数の結婚式があり薄給の身にはこたえた。いまでは甥姪達は一部を除きほとんど片付いていて、ここ4・5年は結婚式に出る機会がなかった。

かかってきた電話

 梅雨が始まる少し前頃 妹から電話が入った。やや婚期をのがしていた娘の結婚話が整ったので出席してほしいとのことで、日取りは7月25日。とっさに 天神祭 暑い と思った。家内はすぐ衣裳どうしようといったさすはに女性である。場所は神戸の某ホテル。ところが、すべてが整い涼しい中で進行し、外の暑いことを全く忘れていました。

結婚式の変遷

 わたしの結婚式に対する最初の思い出は、戦争帰りのおじが昭和22年に結婚した時おちょうめちょうで杯に酒を注いでまわる子供を演じたことである。田舎のことでふすまを開ければ大きな部屋になり大きいほうの部屋には仏壇があるので式や宴会はちょうど仏壇の前で行われた様なものである。婚礼や葬式など大きなお客ごとがあると近所に料理を作ったり段取りを進める組織でもあったのか、すべてが近くで調達され宴席は次の日の朝も、そして学校から帰ってきてもつづいていた。こんなことが昭和35年ごろまで続いたろうか、都会では神社の本殿が式場になり宴席は料亭とか・・・。さらに何とか殿という式場ができ、そこへ神社から神主が出かけ、式も披露宴も其処の会館内で。

新婚旅行

 新婚旅行は私の小さいころはなかったように思うが、昭和30年ごろから少しづつはやりだし、有馬、白浜、城崎などが主であったように思う。40年ころは熱海や宮崎が新婚旅行のメッカとなった。大安の日の夕方の大阪駅には必ずと言っていいほど何組かの新婚旅行組がおり、大勢で見送りに来ていた。大人しい組、万歳組や胴上げ組等いろいろ。なぜか必ずと言っていいほど新婦は白い帽子をかぶっていたので、観光地などで帽子を被っているカップルで、いまひとつ溶け込みにぎこちないのは新婚旅行のカップルであると私は決めつけていた。経済成長と対ドル交換比率が進み国内旅行より外国のほうに割安感があり今では新婚旅行と言えば海外旅行を指すぐらいになっている。

末永い幸を願う

 昨日の結婚式で最後に二人の弟たちは姉をお姫様抱っこしたり、家族で写真を撮ったりと、久々に家族の絆、肉親の良さに接し、亡くなった親や肉親たちを思いました。そしてこの光景を一番見てやってほしかったのは今は亡き母である。そしてこの幸せが末永くつづくことを願いました。ここまで思い出すままに書きましたが、これも古希を過ぎて年寄りくさくなってきたからでしょうか。

コメントをどうぞ