‘過去の思い出’ カテゴリーのアーカイブ

再度の廣島行き

2016年12月1日 木曜日

喜寿と金婚を向かえたこの秋 子供達から祝いをいただいた。この歳まで色々あったけど「ここまでよく来たなー」と二人の思い。折角なので有意義な旅にしようと二人で行き先を検討した結果、廣島の平和公園・資料館などを中心とし、ついで竹原市の街並み保存地区、西條市の酒蔵通り、宮島・厳島神社、呉市の大和ミュージアムなどを訪ねた。中学生の頃だったか岩波の写真集「廣島」を見て強い印象が残っていたからです。御影石の階段に座っている人の影が石に残っている、絣の着物を着た女性の背中に着物の模様そのままの火傷、立ち木のみかんの実がその向きだけ焦げている、など記憶にこ残っていたからです。戦後の昭和21年に小学校に入ったので、幾らか戦争のことを知っており、年齢は小さいが戦後のドサクサ時代を通ってきたし、この歳まで年齢を重ねると、写真の画面だけでなくそこに秘めている周囲の状勢も想像しながらみました。館内は一般客は勿論、修学旅行生、外国人などで、たいへん混雑していましたが出来るだけ記憶に残るよう解説文を読むようにしました。原爆ドームはまさにシンボル的存在ですが、70年を過ぎ痛みがひどいのか補強が目に付きいたいたしい思いをしました。折角だからと優勝した広島球団の新球場を見に行ったが、車を置くところがなく球場の周囲を廻ったのみでしたが、なにやら行列が出来ていたので聞いたところ「明日のファン感謝デー」の入場の列だった。次の日のニュースで球団から広島市へ5億円の寄付が行なわれ、その内の1億円は原爆ドーム保守管理に当てていただきたいとのことでした。市民はいまだ原爆とともにあるのだなーと思いました。

宮島は丁度干潮時で鳥居まで歩けました。触ってきました。大きかったです。ここも一般観光客、修学旅行生とも多く、外国人観光客も結構いました。厳島神社だけでなくお寺や五重塔等もあり自分の知識のなさを恥じました。メインストリート?のみやげ物店街は多くの人で 心斎橋筋の人通りぐらいありました。

大和ミュージアムでは船体模型は勿論関連の品を展示しているのですが、船体及び装備の建造の工夫・苦労。あのような最後となったが最後の出撃前休暇、最後であることを伏せた家族との別れの文。生き残った人たちの証言など、胸にこみ上げて来るのを禁じ得ませんでした。  戦争は悪だ。絶対にしてはいけないと言う意見があります。正しい意見と思いますが、、日本が攻撃を仕掛けてこないことを見越してなめきって武力をちらつかせる国がある以上、それを排除するために軍備を備えるのは致しかたなしとも思うが、戦争で亡くなった方たちはどう思うのだろうかと自問した。

風化が進むドーム(目立たないところに補強がされていた)

 

 

 

 

 

 

 

 

平和を祈る式台

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原爆の子の塔(足元のボックス内には全国から寄せられた折り鶴が入れられていた)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平和公園中心部(資料館2階からの遠望)

 

 

 

 

 

 

 

 

火垂るの墓 を読んで思ったこと

2016年8月13日 土曜日

野坂昭如著 火垂るの墓 を読んだ。何回目かである。

「省線三宮駅構内浜側の、化粧タイル剥げ落ちコンクリートむき出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床に尻をつき両足まっすぐ投げ出して・・・・・。」これは 火垂るの墓 の書き出しで、主人公の最後の場所である。14~15才の孤児である主人公はなぜ駅にたむろしたのか。いつも人混みの中に居られる人懐かしさ、雨露をしのげる、トイレ・水道がある、たまには貰い物がいただけるなど。主人公は大変な下痢もちで間もなくここで亡くなる。涙なしでは読めない。三宮駅、神戸駅、兵庫駅は戦前からある駅舎で爆撃を受けなかったため戦後も長い間戦前のままであった(今はJRになりどの駅も改装され昔のおもかげはほとんどなくなっている)私が神戸で下宿生活(昭和30年からでは兵庫高校(ニ中)の近く、そして一年後には板宿小学校の近くに移った。)を始めるほんの10年前の、一面焼け野原で家を失った人や孤児たちが雨露しのいだ戦後間無しの情景である。私は今でも昔の兵庫・神戸・三宮の駅舎の構内の様子が直ぐ思い出すことが出来る。

昭和30年~33年まだ戦後を残した神戸(進駐軍がいた)で高校生活を送った私は、大阪、奈良、堺と住所を変えて約60年になりますが、出張や所用で神戸へ行くことは何度となくあった、三宮駅構内を通る度にどの柱を背にしていたのだろうと主人公を思いながら通りました。

若い頃に読んだ思いと(終戦時私は5歳であった)、喜寿まで歳を重ねてから読んだ思いには差がある様に思う。これは一体何だろう。本に幾ら詳しく書いても当時の状況を知らない若い人たちにどれだけ伝わるのだろうかともどかしくも思う。昨年、焼け跡・闇市派と言われた作家で「火垂るの墓」の著者野坂昭如さんが85歳で亡くなりました。そして71年目の終戦記念日がもう直ぐ。大切な何かを積み残しながら、時代が動いているなーと感ずるこのごろです。

敦盛の 青葉の笛 を見に須磨寺へ

2015年7月19日 日曜日

平家物語の須磨一の谷の合戦で熊谷直実に討ち取られた平敦盛が持っていたと言われる笛 青葉の笛 を見よーと思い、堺市から車で出かけた。まずJR須磨駅を目指し、そこから須磨寺を目指した。平日でもあり門前の駐車場へすぐ入れました。駐車場を出ると左側に敦盛と熊谷直実との水際での戦いの場面が作られていた。陸側にいるのが直実。敵が意外と若く、我が子ほどでしかなく見逃してやりたいが、既に源氏の味方が駆けて来るので助からないであろうと、心を鬼にして首をとった。後年 熊谷は僧になった。

屋外に作られた 敦盛(左)と熊谷直実の戦いの場面

 

 

 

 

 

 

 

 

敦盛の首を洗った池と義経腰掛の松

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し見難いが穴が連なっている部分が笛です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目指す青葉の笛は何処にあるかと寺の人に尋ねると、休憩所になっている建物の一画にある宝物館に展示されているとのことでそこへ行った。笛は明るい照明の下で金ピカの経筒の様なものの中に立てかけられていた。いかにも古めかしい穴の開いた筒(笛)がそこにあった。(カーソルを写真の上へ移動すると手の形に変わりますのでマウスを左クリックすると写真が大きくなり笛が見えます)入れ物とは対象的過ぎて 意外であった。明るさを下げ袱紗のようなものを敷き、スポットライトでの照明にすれば少し厳粛な雰囲気がでたかなーー。(私の感想)

私は昭和30年ごろ神戸の高校へ通っていた。そこは三学期のテストが終わると卒業式までの間に寒中マラソンがあった。コースは須磨寺から田井の畑の厄除け神社まで往復約8km?。田んぼの中のバス道を駆けたように思う。半世紀以上もなるので今どうなっているか見てみたい気持ちもあった。境内は地震で様変わりになっていると寺の人の話。周りは変わりすぎて何も思い出せませんでした。

 

富岡製糸場のこと

2014年10月2日 木曜日

 群馬県の富岡製糸工場が世界遺産に選定され、ご当地は見学者で大賑わいとニュースで伝えています。この工場が生産活動を止め、売らない、貸さない、壊さないなどをモットーに保存してきた結果、世界遺産に選定されたようだ。小生が2006~7年ごろ北関東(埼玉、群馬、栃木方面)をドライブしたとき、この工場を見学したことがある。そのときの印象は、昨日まで動いていた機械にカバーを掛け明日の再開に備えているような、電源を入れればすぐに動き出すかと思うほど保存状態が良かった。見事に保存された文化遺産・産業遺産である。世界遺産に選ばれてお手本のフランスも喜んでくれていると思います。教科書にも必ず出てくるところでもあるので、関西からは少々遠いがチャンスを作って見学されることをおススメします。また片倉工業の創業者である片倉兼太郎は「ああ野麦峠」の舞台となったシルクの街長野県岡谷市の生れ、そしてここで創業。現在、富岡と岡谷は姉妹都市でもある。この岡谷市にも蚕糸博物館ができていて近代的産業になる前の手工業的な設備が展示されています。中では糸取りの実演も見ることができます。(写真はフリーソフトから)

年代を感じさせる建物

 

保存の良さを感じさせる機械類

昔の思い出 飛び込み台のこと

2014年7月20日 日曜日

今年も一学期が終わり夏休みが始りました。孫達が家に居るようになり自分が子供の頃、夏休みはどうしていたのかなーと考えてみた。面白いことを思い出したので綴ってみよう。

昭和21年国民学校に入学し、昭和30年3月中学校を卒業するまで田舎にいた。漁村なので小さな港があり、港の外にも漁船を引き上げておいたり、網を干したり、漁具の手入れをしたりできる砂浜があった。もちろんシーズンには海水浴ができる。地元の人以外は殆んど来ないので仕事をしている人や、泳いでいる子供達はほとんど顔見知りばかりであった。たまに色白の(日に焼けていない)子がいるとたいていは夏休みで親戚を頼って遊びに来ているのであった。

こんな田舎の砂浜海岸であるが、シーズンには毎年飛び込み台が設置された。そしてなんとそれを設置するのは地元中学の一学期末テスト終了後から夏休みが始るまでの間に、男子中学生が役場の人たちと協力して設置した様に思う。時期が来ると役場横の広場に組み立てられる。支柱や天板は全て檜材で高さ5mほど。水辺まではみんなで担いで行き、水に浮くので所定の場所まで引っ張っていく。重石になる砂を詰め込んだ”俵”などは手漕ぎの小型漁船で運び作業をはじめる。水中へ下ろされた”俵”は意外と軽く中学生二人で十分移動できた。1人でもかろうじてその場で持ち上げることができた。飛び込み台の最下部に棚のように設けられた重石受け柵に6~8個の”俵”を置くと安定し作業は終了。これらのことは息をいっぱい吸い込んで潜って行なう、岸からせいぜい40~50mの場所での作業である。そのとき小型漁船の櫓を操っていた人が役場の用務員さんだったと思うが、船べりに抱きつき船が傾くと火がついたように怒られた。反対側でもそれをするとまた怒る。やるほうも心得たもので水が入るまでは傾けないのだが、必死になって怒るおじさんをからかっていた。今振り返って、多分あのおじさんは”カナヅチ”だったのだろうと思うと、随分怖い思いをさせてしまったと”反省”しています。こんな飛び込み台もお盆過ぎて台風が来る頃になるといつの間にか撤去されていた。

背中の皮が3回も4回もむけ、白いところは手のひらと足の裏そして三角ふんどしのあとぐらいしかないほど遊んだ海岸は今は、埋め立てられ道路、駐車場、役場施設の拡充などで跡形もなくなってしまっている。漁師でなくても、あの波止場の先は流れが速い、あそこは急に深くなっている、あそこは遠浅になっているなどと聞かされ知っていたが、学校のプールで泳ぐ今の子供達は身近な自然の危険をどれだけ知っているのかと思う。

外国豪華客船のこと

2014年3月20日 木曜日

数日前から世界一周の豪華客船クィーンエリザベス号が日本へ来ている。そして横浜に寄港したが今は神戸に寄港しているようである。私は昭和30年ごろ神戸に住んでいたが、神戸港には豪華客船の寄港が年中行事になっていて「今年も世界一周客船○○○○号が寄港した」とよく新聞ダネになっていた。数日滞在するので京都・奈良・大阪・宝塚など観光していた様に思います。そんな時プレジデントクリーブランド号の入港があり下宿の主人んが知人(オリエンタルホテル勤務)からもらったからと言って見学チケットをくれた。淡路の田舎から出てきた高校生の私。下宿の中学生と二人ででかけた。どうやって船の中に入ったかは覚えはないがエレベータらしきものの前に立っているとドアーが開いた。フラフラット入ったら閉まってしまった。デパートのエレベータしか乗ったことがなく自動のエレベータなど想像もつかない、大あわてで頭真っ白になった。手当たり次第にボタンを押したところ動き出しある階で停まってドアが開いた。大急ぎで降りた。そこは多くの人がダンスを楽しむダンスホールした。何階層にもなっており映画館・ダンスホール・食堂・プール・ずらりと並んだデッキチェア。そしてホテルのようにどの階にも客室がずらり。これが船なの・・・・。と 小さい子供をつれたおじさんと会話することができ自分の片言が通じたことがたいへんうれしかった。(だが語学のレベルは今も殆んどしゃべれない)。青雲の志に燃えていた?頃の思い出の一コマでした。

小豆島見聞録

2013年10月12日 土曜日

長い間小豆島へ行きたい思っていたが、機会があり行ってきた。それは「二十四の瞳」の岬の分教場を見たかったからです。分教場の入り口すぐのところには木の下駄箱があり、木製の廊下、教室に入ると小さい二人用の木の机とイスが並んでいる。古いオルガンなどあり、床板の傷んだところはツギを当てる様に修繕されている、海岸にも近いなど、昭和46年まで使っていたそうです。私が入学した頃の小学校の教室は床に小さい穴があり落ちないように周囲に物を置いていたり、鉄製窓枠が錆びていて大力を入れないと動かず、開いたときは勢い余ってガラスが壊れた。破れたガラス窓は板を打ち付けられず新聞紙を貼るかそのまま。数十メートルで護岸がありその下は海岸・砂浜。冬の西風はまともに吹き込む。戦後間なしの日本は貧しくどこにでもあった光景かもしれません。分教場と似た環境にあり少ないあの頃の記憶がよみがえって、懐かしい限りでした。

島ではいろいろ写真を撮りましたが、珍しいと思ったものを示します。先ずは潮がひいた時だけ徒歩で島に渡れるエンゼル・ロード(土庄前島地区)。丁度引潮だったので島まで歩きました。ギネスに認定されている世界一狭い海峡「土渕海峡」。全長2500m、最大幅400m、最小幅9.93mで漁船、レジャーボート、小型船が通るそうです。水は川の様にゆるく流れていました(潮の満ち干と関係ある潮流)。そのすぐそばの土庄郵便局では外壁に沢山の切手を貼って郵便局をアピールしていました。また中山の農村歌舞伎座のすぐ山側には天皇皇后両陛下が視察に来られた千枚田がありました。このような水田は機械が入りにくいので農作業が大変ですが、このような風景は日本の山間の各地に多くある日本の原風景の一つと思います。

 

信州の 蛍まつり と 万治の石仏

2013年6月19日 水曜日

14・15・16日と諏訪湖方面へ行ってきました。行きの14日と帰りの16日は良い天気だったが肝心の15日は1日中雨でした。14日の夜は辰野町の「蛍まつり」に行きました。天竜川沿いの150m×100mほどの 場所で、きれいな水が流れる水路を縦横につくり、餌となる川蜷を生息させているらしい。まつりの期間中は売店が出るし、駐車場はあるが辺り一帯は車であふれる。場所へは小さな橋を渡るのだがここで観賞料300円を支払います。ところどころに臨時トイレが設置されていた。暗くなりかける7時半ごろから光るのが見える。辺りがさらに暗くなると広い場所一面に無数の蛍が乱舞しているのがわかる。場内には一切明かりはない。約3m幅の順路があり暗くてもはみ出して怪我しないよう策が設けられている。こんなこと初めての経験であり、カメラに収めようと試みたがフラッシュを焚くと光が見えなくなるので困った。結局私の腕前ではまったくだめでした。東京からテレビ朝日のクルー5~6人が来ていろいろな機器を並べ頭を寄せ合っていたが、あの状況をどの程度収録できたのか見てみたいと思います・・・・・・。私の感想:これまで田舎や奈良・泉州で見た蛍は体の後ろ半分が光って辺りを明るくしていたと思うが、信州の蛍はやや小さく、体の最後尾から真後ろに向かって小さい光を出しているようであった。種類が違うようでした。

泊まった宿舎に「万治の石仏」のポスターがあったので撮りました。万博の頃だったと思いますが、岡本太郎さん、新田次郎さんらが絶賛したことから随分話題になり、その頃見に行ったことがあります。今では観光スポットの一つになっています。なぜか異国人風の顔をしています。万治年間の彫刻があるので「万治の石仏」と言うそうで近年自然に首が伸びるとTVで話題になったことがあるそうです。

 

朋あり 遠方より来る

2013年3月25日 月曜日

桜の花の便りが聞こえてくる22日に、奈良に住んでいた頃(10年前までの35年間)の町内の人達が、堺観光に来られたので案内してまわりました。説明というよりは昔のご近所メンバーの中に臨時会員として入れてもらい、わいわい言いながら賑やかに一緒に歩いたといった方が当っている状態でした。説明より雑談が主?で話題はお互いの家族のこと、成長した子供たちのこと、健康のこと、来られなかったメンバーの近況などでした。スケジュールを大幅にオーバーしてしまい、一部を飛ばすことになりました。帰宅後世話役からお礼の電話が入りましたが、「大変好評だったのでコースを変えて2回目、3回目をやって欲しいとの希望があるがどうですか」と言うことでした。ここ2年ほどは脳梗塞、リハビリ、肺がん手術と大病続きだったが、お蔭様でここまで回復し、皆さんに喜んでもらうことができたのが大変嬉しく、感慨一入でしたので、もちろん「OK」の返事をしました。次回の計画が何時なのか今から楽しみにしています。

大仙公園の茶室「伸庵」でいただき方の説明を頂いているところ

 

南海ホークス展やってますよ

2013年3月14日 木曜日

今 堺市の大仙公園にある堺市博物館 で なんば球場 を本拠にしていた今はなき南海ホークスのいろいろな思い出品を展示しています。田舎育ちの私は小さいころは巨人以外はほとんど何も知らない状態だったのですが、山本(鶴岡)監督、野村、杉浦ぐらいは知っていました。

別所が南海から巨人へ移った経過は知りませんが高校生のころ(昭和30年ごろ)、須磨区板宿町に下宿していた。そのころ下宿のおばさんが「たそがれ時に背の高い日に焼けた人が向こうのほうから頭を下げながら近づいてきたので、誰だろうと思いましたが、すれ違いに挨拶すると別所さんだった。東京へ行ってからは見かけることが少なくなった。」といったいました。南海から巨人へ移ったことをいっていたんだと思います。下宿の一軒置いて隣が別所さんのお宅で、出身校の滝川中学(現在の滝川高校)までは徒歩10分ぐらいのところでした。阪神淡路大震災のあと、かつての下宿を見舞ったが、あたり一帯は建物の形通りの基礎石が残るだけでした。

球場が大阪市内にあり、気軽に行かれた方が多いと思います。一度博物館へいかれてはいかがでしょう。65歳以上の方は何か証明するものを見せれば無料になりますよ。