昔の思い出 飛び込み台のこと

今年も一学期が終わり夏休みが始りました。孫達が家に居るようになり自分が子供の頃、夏休みはどうしていたのかなーと考えてみた。面白いことを思い出したので綴ってみよう。

昭和21年国民学校に入学し、昭和30年3月中学校を卒業するまで田舎にいた。漁村なので小さな港があり、港の外にも漁船を引き上げておいたり、網を干したり、漁具の手入れをしたりできる砂浜があった。もちろんシーズンには海水浴ができる。地元の人以外は殆んど来ないので仕事をしている人や、泳いでいる子供達はほとんど顔見知りばかりであった。たまに色白の(日に焼けていない)子がいるとたいていは夏休みで親戚を頼って遊びに来ているのであった。

こんな田舎の砂浜海岸であるが、シーズンには毎年飛び込み台が設置された。そしてなんとそれを設置するのは地元中学の一学期末テスト終了後から夏休みが始るまでの間に、男子中学生が役場の人たちと協力して設置した様に思う。時期が来ると役場横の広場に組み立てられる。支柱や天板は全て檜材で高さ5mほど。水辺まではみんなで担いで行き、水に浮くので所定の場所まで引っ張っていく。重石になる砂を詰め込んだ”俵”などは手漕ぎの小型漁船で運び作業をはじめる。水中へ下ろされた”俵”は意外と軽く中学生二人で十分移動できた。1人でもかろうじてその場で持ち上げることができた。飛び込み台の最下部に棚のように設けられた重石受け柵に6~8個の”俵”を置くと安定し作業は終了。これらのことは息をいっぱい吸い込んで潜って行なう、岸からせいぜい40~50mの場所での作業である。そのとき小型漁船の櫓を操っていた人が役場の用務員さんだったと思うが、船べりに抱きつき船が傾くと火がついたように怒られた。反対側でもそれをするとまた怒る。やるほうも心得たもので水が入るまでは傾けないのだが、必死になって怒るおじさんをからかっていた。今振り返って、多分あのおじさんは”カナヅチ”だったのだろうと思うと、随分怖い思いをさせてしまったと”反省”しています。こんな飛び込み台もお盆過ぎて台風が来る頃になるといつの間にか撤去されていた。

背中の皮が3回も4回もむけ、白いところは手のひらと足の裏そして三角ふんどしのあとぐらいしかないほど遊んだ海岸は今は、埋め立てられ道路、駐車場、役場施設の拡充などで跡形もなくなってしまっている。漁師でなくても、あの波止場の先は流れが速い、あそこは急に深くなっている、あそこは遠浅になっているなどと聞かされ知っていたが、学校のプールで泳ぐ今の子供達は身近な自然の危険をどれだけ知っているのかと思う。

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コメント / トラックバック1件

  1. aladdin より:

    akjさん こんにちは。
    ご自宅は海べだったのですか。私の実家は山だったので、小学校の時はため池で泳いでいました。でも此処は「別村」の場所だったので、いつも人が居ないことを見計らっての遊びでした。
    結構、急に深くなるのでおぼれないように気を使いながらの水遊びでした。

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