私が泉北ニュータウンに住むようになったのは、泉北高速鉄道栂・美木多駅が開業した4か月後の1974年3月で、その後4年間は始発駅にゆっくり座っての楽な通勤であった。
当時、私の住む桃山台2丁は、入居者が全体の3分の1くらいで、北東側の緑道より10メートルほど下がっている。
テレビを見るために屋根の上に高いアンテナをつけても、ゴーストが入り、ザーザーと音が入ってほとんど見えない。
下の隣のご主人は私と同じサラリーマンで、時々通勤電車でお会いし、話もするようになった。「テレビはきれいに見えますか?」「ほとんど見えません。」という話になり、泉北開発センターにその話をしたところ、大阪府庁へ行ってくれと言われた。下の隣のご主人と私の二人が仕事を休んで府庁でテレビが見えないので何とかしてくれといったところ、難視聴の件ならNHKだと言われ、ちょうど同じ馬場町だったNHKに難視聴の解消を求めたところ、そのためには自治会員の同意書が必要だと言われた。
入居者は入ったばかりで、お互いほとんど名前も知らず、自治会どころではなかった。しかしテレビの難視聴解消のために自治会を作ろうとなり、入居しているすべての方に話をし了解を得て、約10人の方々で桃山台2丁分譲自治会を作り、同意書を携えてNHKと交渉を行い、難視聴解消ために無料で有線テレビがついた。
泉北ニュータウンのことになると、栂・美木多駅開業と有線テレビはまだ元気に頑張っていることが自慢だが、当時若かった我々が亡くなったり元気がなくなっている、これが時代かなと思う。
horichanさん こんにちは
泉北ニュータウンへの入居当時は、大変なことが多かったようですね。「第四月会」のメンバーの丸尾さんも買い物をするところが無く、高島屋ができるまでは「陸の孤島」だったと話されていました。私は、転勤が多くこちらに来たのは、たぶん和泉中央ができた後だったと思います。