4月26日写真入力練習

2019年4月26日

奥高野山

2019年4月26日

奥高野山の立里荒神から大峰山方面の秋を望んでみました。

幕末・明治時代の絵図

2018年6月20日

ネットを見ていたら、東京の天理ギャラリーで幕末から明治時代の「諸国名所絵図めぐり」が行われていた。内容を見ると精行社作の銅版画があることを知り、問い合わせたところ、展覧会終了後に展示品が天理大学附属天理参考館に戻るということを教えていただいた。

資料熟覧許可書をいただき、天理市にある天理参考館へ訪ねました。学芸員から特別に精行社作銅版画を見せていたき、長時間にわたって銅版画だけの話をしました。この参考館は日本のみならず世界の考古美術などが収集されているようで、私在住の堺市立博物館よりも立派な博物館だということがよく分かりました。

明治よりももっと古い時代

2018年4月18日

先日大阪府南河内郡太子町へ歴史散策に行きました。

まず、叡福寺を訪ねました。境内の奥の小高い丘に聖徳太子の御廟があり、

御廟には太子と母堂と妃の3人を祀っていました。            

叡福寺

聖徳太子の御廟

御廟

その後、太子の父、用明天皇陵や叔母の推古天皇陵などをたどり、日本最古の国道である

竹内街道を歩いて今回の歴史散策は終わりました。

聖徳太子については飛鳥、法隆寺、天王寺などがよく出てきますが、ここにお墓があることは

あまり知られていないようです。

竹内街道

2018年4月18日

だれも知らない明治時代

2017年5月17日

5月14日付読売新聞文化欄をなんとなく見ていると「近代日本の洋風建築」の紹介本があり、

「著者によって歴史が復元された邸宅が、今や旧岩崎邸庭園、東京都庭園美術館などとして公開され・・・」

という記事があった。旧岩崎庭園は文京区にある現在東京都重要文化財のことだと確認できた。

明治時代には、日本最初の洋風トイレがあり、洋風本館と和風建物が昭和40年ころまであった。

今から60年前には、和風建物が私どもの寮になり、60人ほどが2年間寝食を共にした。

明治時代のこの和風建物の畳の上で、昭和時代の我々が過ごしたという本当の「だれも知らない明治時代」でした。

今年4月には、入所60周年祝いの同窓会を大阪で行った。

 

だれも知らない明治時代 7

2017年2月15日

明治時代6で松岡眼病院を出しましたが、今回は石原時計店の銅版画をご覧ください。

銅版画は、第2代目の店で大阪の南久宝寺町にありましたが、私が昭和32年に転勤で大阪に来てからは、毎日淀屋橋交差点に

ある石原時計店ビルを見ていました。そんなことで親しく感じていたので、お話をしたこともない石原時計店の社長にお会いして、このような銅版画や銅版原本がありませんかと尋ねましたところ、こんなことは知らないと言われました。銅版画の写真と拙著の本をお渡ししたところ、社長著作の「石原時計店物語」をいただきました。

 

今年最初のブログ

2017年1月18日

一年毎に歳が一つ増えるので、ボランティアを一つやめることにした。

7,8年続いた西原公園の並木道清掃だ。秋冬になるとケヤキの落ち葉で大変だった。

正月は、3が日のいつか一日に、真言宗ではないにに高野山へ出かける。

今年はほとんど雪がなく正月らしくない初詣だった。

 

 

 

だれも知らない明治時代 6

2016年11月16日

今回は大阪市の銅版画(1)松岡小太郎眼科病院を紹介します。

明治時代には大阪市今橋5丁目(地番変更で4丁目)にあった松岡眼科病院です。この病院は初代日本銀行大阪支店の跡にでき、明治28年まで繁昌していましたが、郷里の四国へ帰りました。当時は、NHKの「朝が来た」の加島家とはすぐ近くなので患者さんでよく来ていたかもしれません。この場所は現在、大阪倶楽部になっています。

もっと古い時代のる奈良へ鹿の角切と東大寺周辺へ1か月の間に2回も行きました。

 

 

 

 

 

だれも知らない明治時代 5

2016年9月21日

今回は銅版画の歴史を簡単に述べてみます。私自身は千葉県立博物館の学芸員や埼玉県立文書館の司書の方などに教えていただいたもので、偉そうには言えません。

幕末に、ヨーロッパから銅版が入ってきて、亜欧堂田善などで日本でも銅版が作られるようになった。

明治になって、商店や社寺の広告のために銅版を作る会社ができ、日本全国で銅版が作られた。大阪では「浪華の魁」、関東方面では精行社の日本博覧図の銅版集、九州では各県ごとに商家の銅版画集が作られた。明治30年になると写真が安価に簡単に写せるようになったために、銅版画は衰退してきました。明治時代の銅版画は約20年間だけのものです。

堺市の銅版画は精行社製作の銅版画で、これからはすべて精行社製作の銅版画で、15都府県、商家、会社、銀行、会社、学校寺社、邸宅など各種の建物の銅版画で進めていく予定です。

 

私と泉北ニュータウン

2016年9月21日

私が泉北ニュータウンに住むようになったのは、泉北高速鉄道栂・美木多駅が開業した4か月後の1974年3月で、その後4年間は始発駅にゆっくり座っての楽な通勤であった。

当時、私の住む桃山台2丁は、入居者が全体の3分の1くらいで、北東側の緑道より10メートルほど下がっている。

テレビを見るために屋根の上に高いアンテナをつけても、ゴーストが入り、ザーザーと音が入ってほとんど見えない。

下の隣のご主人は私と同じサラリーマンで、時々通勤電車でお会いし、話もするようになった。「テレビはきれいに見えますか?」「ほとんど見えません。」という話になり、泉北開発センターにその話をしたところ、大阪府庁へ行ってくれと言われた。下の隣のご主人と私の二人が仕事を休んで府庁でテレビが見えないので何とかしてくれといったところ、難視聴の件ならNHKだと言われ、ちょうど同じ馬場町だったNHKに難視聴の解消を求めたところ、そのためには自治会員の同意書が必要だと言われた。

入居者は入ったばかりで、お互いほとんど名前も知らず、自治会どころではなかった。しかしテレビの難視聴解消のために自治会を作ろうとなり、入居しているすべての方に話をし了解を得て、約10人の方々で桃山台2丁分譲自治会を作り、同意書を携えてNHKと交渉を行い、難視聴解消ために無料で有線テレビがついた。

泉北ニュータウンのことになると、栂・美木多駅開業と有線テレビはまだ元気に頑張っていることが自慢だが、当時若かった我々が亡くなったり元気がなくなっている、これが時代かなと思う。