擁護璽ー津波の怖さを後世に知らせる碑

 3月11日午後2時46分に宮城県沖を震源とする前代未聞の巨大地震が起こり、三陸から福島県にかけて海岸が壊滅的な被害を受けた。さらに福島県の原発も被害を受け放射能被害が出ている。内陸部は地震の被害、海岸部は地震と津波の被害、原発の近くでは地震・津波・さらに放射能被害がある。以前から地震が起きたら津波被害が出ると言われていた地域であるが、二重、三重と被害が重なり大変お気の毒に思う。

 こんな時、岩手県宮古市重茂半島姉吉地区(本州最東端)に津波に対する注意喚起の碑があるのが報道され話題となっている。

大津波記念碑

高き住居は 児孫に和楽、想え惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな。 

明治29年にも、昭和8年にも、津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、 

僅かに 前に2人、後ろに4人のみ 幾歳経るとも要心あれ。

(この様な内容の碑は、青森県から宮城県にいたる三陸海岸各地に200基ほど建てられているそうです)

 ところで、話は堺市大浜公園は蘇鉄山。ここに「擁護璽」(ようごじ)という碑が建てられている。この碑には

嘉永七年六月十四日(1854)地震があった。114日、5日にも強い地震があり、沖の方が恐ろしく鳴り響き、津波が起って川筋へ激しく入り込み、また引きも激しく、多くの船の碇綱、艫綱切れ、あちこち突きあたって橋は八つも壊れ言いつくせないくらい。地震と津波で多くの家、土蔵が壊れたが、里人たちは神社の広場に集まり避難した。お陰で怪我をしたり死んだ人が居なかったので大変ありがたいことであった。他所の入江や川筋では避難のために小舟に乗って安心していたが、津波によって大船が入込み、下敷きとなって命を落とした者数知れず。

どんなことがあっても、地震が強い時は船に乗って避難してはならない。宝永年間にも今回と同じようなことがあったと聞いている。この様な例で明らかなように、地震が強い時は、津波があることを知るべきである。堺の人びとが無事であったことが有りがたく、産土神の神明宮、三村宮、天満宮にその喜びの幣を捧げ、後の世も災いが無いことを祈って賜ったおしで()をここにまつるのである。(原文は江戸時代の漢字仮名交じり文。現代語訳したものから要約。他の史料では被害が出てらしい。)と書かれている。後世の人々に地震・津波災害への注意を促し、将来も堺の町が無事である様に祈って建立されたものと思われる。

大浜公園にある擁護璽

擁護璽の裏側

これと同じ嘉永七年の地震・津波で大被害を受けた大坂城下の様子は、現在の大正橋東詰に「大地震両川口津波記」なる碑に長文で示されている。木津川や安治川河口に停泊していた千石船が河川を逆流。橋を次々破壊しながら内陸の道頓堀まで運ばれけが人や死者は数知れずとのこと。大地震の節は津波起こらんことを心得、船に乗るべからず。後の人の心得に。

 これらの碑はいずれも災害の大きさ・悲惨さを示し、同じ災害を被らない様後世の人たちの注意を喚起している様に思われる。

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コメント / トラックバック1件

  1. aladdin より:

    akjさん こんにちは、大浜公園にこのような石碑があるとは知りませんでした。在職中は「メンテナンス」という仕事から「ミスとか失敗」についても研修をしていましたが、2006年のNHKで「知るを楽しむ」この人この世界で「だから失敗は起こる」と題して工学院大学教授の「畑村洋太郎」氏の講座があり過去の失敗から学ぶとして、大船渡市の海岸沿いに津波に対する警告碑で「ここより下に家をたてるな」の教訓の石碑の下に家が建っている写真を紹介して「失敗はそもそも風化しやすく、伝わらない性格をもっている」記されていました。先人の大切な言い伝えや石碑に残されている意味を大事に後世に伝えなければならないと感じています。

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