再度の廣島行き

喜寿と金婚を向かえたこの秋 子供達から祝いをいただいた。この歳まで色々あったけど「ここまでよく来たなー」と二人の思い。折角なので有意義な旅にしようと二人で行き先を検討した結果、廣島の平和公園・資料館などを中心とし、ついで竹原市の街並み保存地区、西條市の酒蔵通り、宮島・厳島神社、呉市の大和ミュージアムなどを訪ねた。中学生の頃だったか岩波の写真集「廣島」を見て強い印象が残っていたからです。御影石の階段に座っている人の影が石に残っている、絣の着物を着た女性の背中に着物の模様そのままの火傷、立ち木のみかんの実がその向きだけ焦げている、など記憶にこ残っていたからです。戦後の昭和21年に小学校に入ったので、幾らか戦争のことを知っており、年齢は小さいが戦後のドサクサ時代を通ってきたし、この歳まで年齢を重ねると、写真の画面だけでなくそこに秘めている周囲の状勢も想像しながらみました。館内は一般客は勿論、修学旅行生、外国人などで、たいへん混雑していましたが出来るだけ記憶に残るよう解説文を読むようにしました。原爆ドームはまさにシンボル的存在ですが、70年を過ぎ痛みがひどいのか補強が目に付きいたいたしい思いをしました。折角だからと優勝した広島球団の新球場を見に行ったが、車を置くところがなく球場の周囲を廻ったのみでしたが、なにやら行列が出来ていたので聞いたところ「明日のファン感謝デー」の入場の列だった。次の日のニュースで球団から広島市へ5億円の寄付が行なわれ、その内の1億円は原爆ドーム保守管理に当てていただきたいとのことでした。市民はいまだ原爆とともにあるのだなーと思いました。

宮島は丁度干潮時で鳥居まで歩けました。触ってきました。大きかったです。ここも一般観光客、修学旅行生とも多く、外国人観光客も結構いました。厳島神社だけでなくお寺や五重塔等もあり自分の知識のなさを恥じました。メインストリート?のみやげ物店街は多くの人で 心斎橋筋の人通りぐらいありました。

大和ミュージアムでは船体模型は勿論関連の品を展示しているのですが、船体及び装備の建造の工夫・苦労。あのような最後となったが最後の出撃前休暇、最後であることを伏せた家族との別れの文。生き残った人たちの証言など、胸にこみ上げて来るのを禁じ得ませんでした。  戦争は悪だ。絶対にしてはいけないと言う意見があります。正しい意見と思いますが、、日本が攻撃を仕掛けてこないことを見越してなめきって武力をちらつかせる国がある以上、それを排除するために軍備を備えるのは致しかたなしとも思うが、戦争で亡くなった方たちはどう思うのだろうかと自問した。

風化が進むドーム(目立たないところに補強がされていた)

 

 

 

 

 

 

 

 

平和を祈る式台

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原爆の子の塔(足元のボックス内には全国から寄せられた折り鶴が入れられていた)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平和公園中心部(資料館2階からの遠望)

 

 

 

 

 

 

 

 

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