4月26日写真入力練習
2019年4月26日奥高野山
2019年4月26日幕末・明治時代の絵図
2018年6月20日明治よりももっと古い時代
2018年4月18日だれも知らない明治時代
2017年5月17日5月14日付読売新聞文化欄をなんとなく見ていると「近代日本の洋風建築」の紹介本があり、
「著者によって歴史が復元された邸宅が、今や旧岩崎邸庭園、東京都庭園美術館などとして公開され・・・」
という記事があった。旧岩崎庭園は文京区にある現在東京都重要文化財のことだと確認できた。
明治時代には、日本最初の洋風トイレがあり、洋風本館と和風建物が昭和40年ころまであった。
今から60年前には、和風建物が私どもの寮になり、60人ほどが2年間寝食を共にした。
明治時代のこの和風建物の畳の上で、昭和時代の我々が過ごしたという本当の「だれも知らない明治時代」でした。
今年4月には、入所60周年祝いの同窓会を大阪で行った。
だれも知らない明治時代 7
2017年2月15日今年最初のブログ
2017年1月18日だれも知らない明治時代 6
2016年11月16日だれも知らない明治時代 5
2016年9月21日今回は銅版画の歴史を簡単に述べてみます。私自身は千葉県立博物館の学芸員や埼玉県立文書館の司書の方などに教えていただいたもので、偉そうには言えません。
幕末に、ヨーロッパから銅版が入ってきて、亜欧堂田善などで日本でも銅版が作られるようになった。
明治になって、商店や社寺の広告のために銅版を作る会社ができ、日本全国で銅版が作られた。大阪では「浪華の魁」、関東方面では精行社の日本博覧図の銅版集、九州では各県ごとに商家の銅版画集が作られた。明治30年になると写真が安価に簡単に写せるようになったために、銅版画は衰退してきました。明治時代の銅版画は約20年間だけのものです。
堺市の銅版画は精行社製作の銅版画で、これからはすべて精行社製作の銅版画で、15都府県、商家、会社、銀行、会社、学校寺社、邸宅など各種の建物の銅版画で進めていく予定です。
私と泉北ニュータウン
2016年9月21日私が泉北ニュータウンに住むようになったのは、泉北高速鉄道栂・美木多駅が開業した4か月後の1974年3月で、その後4年間は始発駅にゆっくり座っての楽な通勤であった。
当時、私の住む桃山台2丁は、入居者が全体の3分の1くらいで、北東側の緑道より10メートルほど下がっている。
テレビを見るために屋根の上に高いアンテナをつけても、ゴーストが入り、ザーザーと音が入ってほとんど見えない。
下の隣のご主人は私と同じサラリーマンで、時々通勤電車でお会いし、話もするようになった。「テレビはきれいに見えますか?」「ほとんど見えません。」という話になり、泉北開発センターにその話をしたところ、大阪府庁へ行ってくれと言われた。下の隣のご主人と私の二人が仕事を休んで府庁でテレビが見えないので何とかしてくれといったところ、難視聴の件ならNHKだと言われ、ちょうど同じ馬場町だったNHKに難視聴の解消を求めたところ、そのためには自治会員の同意書が必要だと言われた。
入居者は入ったばかりで、お互いほとんど名前も知らず、自治会どころではなかった。しかしテレビの難視聴解消のために自治会を作ろうとなり、入居しているすべての方に話をし了解を得て、約10人の方々で桃山台2丁分譲自治会を作り、同意書を携えてNHKと交渉を行い、難視聴解消ために無料で有線テレビがついた。
泉北ニュータウンのことになると、栂・美木多駅開業と有線テレビはまだ元気に頑張っていることが自慢だが、当時若かった我々が亡くなったり元気がなくなっている、これが時代かなと思う。