写真を~とのことでしたが、デジカメの使い方もよう解らないし、ましてパソコンになんて出来ません。すみません。度素人です。携帯から簡単に更新できる?って思ってたんですがその方法教えて欲しいです。お手軽がなによりです。よろしくおねがいします。あと、リンク 何?
それと、「このページから他のページへ~~~」よくでてくるのです。どうゆう意味ですか?
本気でブログ書こうと思ってるんで教えてください。
堺発の市民活動応援サイト
写真を~とのことでしたが、デジカメの使い方もよう解らないし、ましてパソコンになんて出来ません。すみません。度素人です。携帯から簡単に更新できる?って思ってたんですがその方法教えて欲しいです。お手軽がなによりです。よろしくおねがいします。あと、リンク 何?
それと、「このページから他のページへ~~~」よくでてくるのです。どうゆう意味ですか?
本気でブログ書こうと思ってるんで教えてください。
太田田根子って、聞いたことないわ。一体どこのどなた? あんた誰かと尋ねると、インターネットが教えてくれた。古代、泉北の、ちょっとした有名人。 今の堺市南区三原台の北側 ”見野山”辺りに住んでいた。 時はBC一世紀の頃、史実半分神話半分の伝説の人らしい。
疫病が流行って民の半分が死んでいく。 困った崇神天皇は、夢のお告げで太田田根子に大物主神を三輪に祭祀させ、国を治めた。 奈良櫻井三輪神社は、日本最古の神社の一つ。初代宮司ということか。
実在した初代天皇は、第十代「崇神天皇」が定説なんだって。 実在の天皇に頼まれたんなら、太田さんは実在の人だろうに・・・。
だけど、太田さんのお父さんは「大物主神」だという。 大国主命なら因幡の白兎で知ってるが、大物主の神さんは知らんなあ。 神話の世界の人だろうに、やはり、太田さんは史実と神話の狭間にいた人なんだろうか。
それにしてもBC一世紀頃の堺・泉北に、歴史ロマンの登場人物が住んでおられたとは、また一つ郷土に関心が深まるなあ。
ちなみに、太田田根子は「オオノタタネコ」と読む男性との、インタネットの情報だ。
パート先での出来事
ありがとうございましたの私の挨拶に「とってもおいしかったです」と私の目をしっかり見ておっしゃいました。その後の仕事の終わるまでの時間がどんなに心地よかったか!年輩の女性の方でした。あんなふうに年を重ねられたら素敵です。
言葉の力ってすごいですね
私たちの団地では、大阪府の”ふれあいリビング”という事業が承認され、現在、集会所の改修が進み、来春2月には完成します。ボランティアによる運営で、独立採算です。開設にあたっての備品購入も助成申請をして、スタートの予定でした。
この”ふれあいリビング”というのは、高齢者の引きこもり対策だけでなく、子どもの育成を地域でという思い、また希薄になった地域のコミュニケーションを図るというものです。この想いからボランティアの特技を活かし、喫茶だけでなく、いろいろな誘致活動を行って、認められたのかなとボランティアの自負するところでした。
ところが、今回の事業仕分けにおいて、基金の見直し、基金の全額国庫返納という、お知らせが届きました。
うわぁ~、先般から、連日のニュースを聞き、心配していたことが現実となりました。広くみなさ~んのお知恵を拝借しなければなりませ~ん。よい方法/ルートがありませんか?
プリーズ ヘルプ アス!!
11月14日付け、読売新聞にこんなことがありました。
丸谷才一さんが文芸春秋の大編集者・池島信平氏から気の進まぬ頼み事の対応に迷って受けた助言:
人生つてものは、敵が千人で味方が千人なんです。敵の千人がへることはぜったいない。とすれば、味方の千人がへらないやうにするしかないんですよ。よほど厭ならともかく、がまんできることだったら、ウンと言ふんですな。
この文章は日米安保について、その後を締めくくっていましたが。
この年齢になっても、う~ん、そうかいなぁ、と思った次第。
ところで、新聞のスクラップというのは、何年たっても個人的思考が同じであると、先日整理してみて思いました。これって、進化していないのかなぁ?
ウォーキング、チャリンコ走行中、頭と体を使って、こんな脳トレは、いかがでしょうか?
その1 あ、え、い、お、う、お、あ、お、 ~ わ、え、い、お、う、お、あ、お
今度は逆に わ行からスタート。口角をしっかり上げることを意識して。
その2 車のナンバープレートを英語で読み上げ。2桁なのでちょっぴり言いやすい
かも?これも口角アップを意識して。
注意: 交通量と周りの人、大丈夫かなのチックをお忘れなく!
夜中百舌鳥まで原付で往復。昼間は暖かかったけどさすがに寒かった。これからますます寒くなるよ~。息子よ私の車かってに我が物顔で使わないで。
最近、歴史にお詳しい先生方のお話を伺う機会があった。
そして驚いた。ボクの住む堺・泉北が、日本の中心的存在であった時期があると知った。
飛鳥時代、奈良時代は日本の昔である。 ところが泉北は、その2~3百年も前、古墳時代から平安時代にかけて約500年もの永きにわたり(あの永い江戸時代でさえも300年ない)、最先端技術でもって日本最大の須恵器生産の中心地であり続けたという。 有史時代が2000年しかない日本で、そのうち500年間、あることのトップが続いたとは、考えなくても凄いことだ。この間、日本各地から多くの人が泉北へやって来ていた。
また、16世紀の安土桃山時代、ヨーロッパで日本の地図が出版されている。その日本地図に書かれている都市名は、京の“都”と“堺”の二つだけだという。
当時、利権を求めて世界中を探し回っていた西洋人、堺へやって来て驚いた。堺の文化的先進性に目を見張った。金銀が豊富なことにも注目した。彼等は欲しいと思えば力づくでなんでも取り上げてしまう。あるいは植民地にするのが常套手段。しかし、堺をねじ伏せることはできないと見て、交易を望んだ。
世界事情に詳しい彼等が、かなり正確な地形を記した日本地図を作るにあたって、日本のあちこちを調べ上げたに違いない。 その結果が、京の都と堺を日本の代表と認めて記したものであろう。
かつて、堺・泉北は日本の中心的存在であったという、ボクがびっくりしたお話し。
26日、所用で出かけたが、天気の良い日なので泉ヶ丘駅まで歩くことにしました。泉北には緑道が各地区にあり自動車が走らないので、散歩やジョギングを楽しむ人を多く見かける、道の両側にはいろいろな木が植えられている。
写真は高倉台にあるいのしし児童公園の近くで桜の木はほとんど葉を落としている。
右の写真も高倉台にある保育所と小学校の間の坂道で朝夕の景色が気に入っているところ。
泉ヶ丘パンジョの東にある駐輪場の両脇には桜の木があり、その季節には花のトンネルとなります。
天気の良い日の夕方、泉ヶ丘駅改札から高島屋の方へかかる連絡橋から見る夕日も一見の価値ありです。
こういうところが多くある泉北ニュータウンが好きです。
タイトルに「成功」と書いていますが、本当のところは、1回失敗しています。「公開」を押さずに「サイトを表示」を押してしまったので・・・またもう一度最初からやり直しました。2回目は見事に成功。
そこで、気をよくしてもう一枚カナダの画像をUPします。