“西高野街道”を行く(2)

西高野街道の「十二里石」を南に下ると、中茶屋地区にきます。関茶屋と同じように街道沿いに、茶屋があったことが地名の由来となったとのこと(西高野街道ガイド小冊子より)。そんな街道に面して、大きな「くすの木」(堺市指定保存樹木)と白い土壁のある「興源寺」に着きました。案内板によれば奈良時代に行基が開いたと伝えられている。本堂には「木造不動明王立像」(堺市指定有形文化財)が安置されています。

興源寺・くすの木

福田から陶器北地区の緩やかな上り坂の街道を進むと、岩室地区の「十一里石」に着きました(中百舌鳥駅より約6.4km)。石柱には「安政四丁巳年二月」と記されていました(1857年2月)。

十一里石

府道堺狭山線との岩室交差点を渡り、狭い道をぬけて、天野街道との分岐点に着きます。大阪狭山市今熊地区をしばらく歩くと急な下り坂に出てきました。遠くに金剛山・葛城山等の山々が見渡せます。                                  この坂道は「おわり坂」と言われています。「街道ガイド」小冊子によれば、江戸時代後期の狭山池改修で働いた「尾張衆」が坂の名前になったとのこと。また、急勾配の坂道を荷車に「追われ」て下ったり、坂を上がりきって「おわり!」と一息ついたのが地名の由来ともいわれているという。                       「西高野街道ガイド」小冊子の編集後記によれば、ブログ講座(2期)の講師であった陸奥 賢氏が編集されています。これからも良き案内書を携帯して、街道を歩いてゆきたいと思います。

「おわり坂」頂上から望む

コメントをどうぞ