‘史跡・遺跡・古墳’ カテゴリーのアーカイブ

西高野街道を歩く(2)

2012年4月5日 木曜日

●松林寺を出て、街道を南に進める。楠町に入ると、交差点に大きな案内板が立っていた。それによると中高野街道は大阪市平野区から南下し、松原市、阿保、堺市美原区の舟渡池、菅生神社から狭山へと通り、ここで合流しているという。

中高野街道・合流点

●楠小学校を左手に見ながら進める。千代田駅~寺ヶ池公園の幹線道路を横切り、原町3丁目に入る。街道沿いには黒の漆喰壁の住宅が町並みを形づくっている。歴史の雰囲気を感じさせる。

原町の町並み(黒漆喰住宅)

●旧阿弥陀寺石造物群の「原町十三仏」(河内長野市有形民俗文化財)を拝み、国道310号線を横切り南へと下る。                 長野保育園の隣りに「近江膳所藩代官所跡」の石碑と案内板があった。慶安4年(1651)膳所藩本多俊次が河内領を支配する為に設置したという。その敷地の一角に「九里石」の石柱と「行者堂」が建っている。石柱には安政4年3月と記されていた。

「原町十三仏」と地蔵さん

●「九里石」を下って行くと、街道は次第に河内長野駅前の商店街アーケードになっていた。「ノバティ長野」の横には「高野街道」の石碑が立ている。東と西の高野街道の合流地点を示していた。「高野山まで南約35km」との文字も彫られていた。

九里石と行者堂

“地下遺構”を見学

2012年3月11日 日曜日

●大阪くらしの今昔館を見た後、「大阪歴史博物館」を見学した。2期生のN氏(大阪市観光ボランティア)が“地下遺構”を勧めてくれました。果たして地下遺構とはどういうものだろうか。

大阪歴史博物館

●大阪歴史博物館はNHK大阪放送局と隣接している。1階の広いロビーの一角に、ガラス張りの床があります。その床下には柱跡の遺構がみえる。

1Fロビー・遺構を見る

●博物館・係員の説明によれば、この建物の敷地には1350年前の飛鳥時代の「難波長柄豊崎宮」が置かれていたという。NHKの地下へと案内された。薄暗い地下1階の空間に、倉庫跡や堀跡が発掘されたままの姿で保存されていた。まさに“地下遺構”であった。

“地下遺構”

●博物館の10階には、奈良時代の「難波宮」の大極殿を原寸大に復元した空間があった。柱の巨大さに圧倒される。「前期難波宮」(7世紀中頃、孝徳天皇築造)や「後期難波宮」(8世紀前半、聖武天皇築造)の模型と出土品が展示されていた。さらに中世・近世~近代・現代の各フロアでは、それぞれの大阪の町並みがミ二チュア模型で再現していた。

大極殿のセット