2011年3月 のアーカイブ

地震に思う

2011年3月30日 水曜日

 奈良からの帰り、ボリュウムを上げてCDを聞きながら帰ってきた。家の近くの自動車屋さんへ寄り、オイル交換を頼んで待っている時のことである。待合室のロビーの遠くのTVで女性アナウンサーが、何処かの自治体の総務課長の様な立場の方に電話でインタビューしていた。内容は分かりませんがしきりに執拗に聞いているようであった。待ち時間が長くなってきたので、新聞でも読もうかとTVの近くへ寄って行って初めて今回の地震を知りました。4時ごろだったと思います。しばらくTVを見ていてようやく内容が理解できるようになった。なんと前代未聞の巨大地震が発生したとのことであった。その時、先刻までCDを聞きながら鼻歌交じりの気持ちであったのが、どこか済まない様な心持になりました。

災害のTV報道

 その夜はご多分にもれずTVにくぎ付けになった。以来今日まで涙なしにはTVを見られない。だが取材場所が変わるけれども、どの地域からの映像も津波が押し寄せいろんなものが押し流される場面が殆どであった。数日間はこの状態が変わらなかった。地震による被害は海岸だけで内陸部にはなかったのだろうかと思わせる風であった。過去最大級の地震だから内陸部も被害があるはずと思っていた。新聞には茨城県の内陸部の避難場所は報道されないから物資は届かないとか。同じように地震にあった長野県栄村の報道も全くない。地震発生10日も過ぎて物資が動き出しているが、やはりTVによく映ったところに偏っているようである。報道各社は配慮すべきと思う。

16年前

 実は16年前に生家が地震で全壊し、母、おば、従兄弟を亡くしました。生活物資をもって持てるだけ持って震災地へ、公民館で何日も泊まり、崩れた家の解体と資材搬出にも行きました。寝た場所は公民館の入口近くであったので人が通るとすぐ目が覚め、TVカメラが来るとその辺りから館内を狙って映像を撮るなど、落ち着かない場所であった。

そこで思うこと

 その頃に思ったこと ①TVによく映るところはどんどん援助物資が来るが放映されないところには来ない。 ②トイレが溢れて問題があった。数多くはほしい。 ③報道は避難所内を撮るときは中の人の感情に思いを働かすべし。 ④インタビューを受けた人から見ると、記者は熱心に聞くが、横から話が入ると全く異なった話しなり、先ほどまでの話は何だったのかとだんだん信用されなくなる。 ⑤ブルーシートが欲しいと言われ、わが家近くのホームセンターでブルーシートを探したが品切れ。長野県の知人に電話し宅配便ですぐに送ってもらって翌日持って行った。品切れ品は遠くの人に頼むべし。 ⑥持参したのは すぐに食べられる寿司とか、手を加えた野菜や食糧、電池、懐中電灯、ポケットラジオ、ホッカイロ、カップめん、干し飯、ウェットティシュウ。 ⑦避難者は病人ではないので、何班にも分けて各班に自治をもたせ連絡、配布、掃除など自分たちでできることは手分けして行うべきと思った。  

 それにしても前代未聞の原発事故 おおごとにならずに 速く終息することを願うばかりです。

私の高校受験

2011年3月14日 月曜日

 ずいぶん古い話になるが、この時期になると毎年高校受験のことを思い出します。時は昭和30年(1955)3月。田舎の中学校の卒業式(3月15日)がおわった次の日かその次の日が高校入試だったと思う。神戸の高校を受験したので、神戸に宿泊したが、神戸に親類・知り合いは無かったので、奉公に出ていた兄の親方の家にお世話になりました。その時のことである。

 卒業式後大急ぎで必要なものを整え、大きくなった荷物をもって(担いで)兄の店(東尻池)を訪ねた(初めて一人で神戸へ行ったので、両親から道順を書いてもらい、何回も何回も口で教えてもらい心細い出発でした)。店で兄の仕事が終わるのを待って、泊めてもらう家(兵庫区平野・市電終点から10分ぐらいだったか)へ向かった。細い路地裏の奥まったところで、丁度目指す家の前まで来た時におまわりさんに呼び止められた。兄貴はハンチングにジャンバー姿。私は学生服で丸坊主・大きい風呂しき荷物を担いでいる。あやしい二人と思ったのだろう。

 荷物の中は文房具や着替え三晩(私の場合三日間試験があった)お世話になるおコメ、そして両親から預かってきた親方にお渡しするお土産等でした。問題はコメ(白米)である。当時は米穀通帳(今の若い方に話しても通じません)で食料を調達していた時代で、コメ現物を持ち歩くのは不法でヤミであるとされていた。ただし、農家の人(私は農家の子)は基本的に米穀通帳はありませんので移動するときは自分が消費するコメを持ち歩いた。(修学旅行で旅館に着いた時大きいシートを広げ、みんなが持ってきたコメを出したことも思い出だします。)

 おコメがあるので、いくら事情を説明しても分かってもらえず困っている時、表の気配を感じたのか家の中から奥さんが出てきてくれて事情を話してくれたことでようやくおさまりました。その晩はいろいろあって興奮・緊張がなかなか収まりませんでした。幸い合格でき三年間神戸でいい高校生活を過ごせました。その後兄の奉公先の親方には神戸での保証人や親代りを担ってもらうなど、大変お世話になり感謝しています。