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夏休みの1日

2012年8月20日 月曜日

長い夏休みも残り少なくなって来ました。そんな1日夏休みをもてあましている孫たちを連れて大仙公園にある堺市博物館へいきました。消費電力を抑えるために8月31日までの火~金は無料にして、多くの人に入館してもらい、省エネに繋ごうとしていました。

展示については高学年の孫だけが興味を持ちましたが、全員で面白く遊んだのは地階にある壊れた焼き物を復元するコーナーでした。すぐ近くには仁徳稜古墳がありますので生きた歴史が学べます。うまくいけば博物館でも仁徳稜古墳でもボランティアさんが開設してくれるかもしれません。宿題まだのお子さんを連れて行くのを考えてみてはいかがでしょう。(堺市博物館は阪和線百舌鳥駅より徒歩5分程度)

仁徳天皇稜正面

博物館入口で

復元に夢中

ちよょっと奈良市へ そして馬見丘陵公園で道草

2012年4月6日 金曜日

急に奈良まで行く用ができましたので、5日に行ってきました。空模様はよかったが風があり気温の割には寒い日であった。堺から竹ノ内峠を越し広陵町の馬見丘陵公園を目指した。この辺りには多くの古墳があるところで、、この公園はこれらの古墳や池を取り込んだよく整備された大きな公園である。桜には少し早いが花見の人も見かけられた。季節が進んでいろいろの花が咲き樹木が茂れば、その木の下で弁当を開けての家族連れでピクニックができるいい公園である。都会と違って無料の駐車場が十分あります。時季を変えてまた行って見ようと思っています。

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南海バスと阪堺線が1日乗り放題

2011年2月27日 日曜日

平成23年3月1日から表題の様なお得なチケットが発売されます。堺市内の周遊、観光、街歩き、お出かけにお得で便利なものです。さらに堺市内の協力店舗やホテル等で利用できる特典も付いていますよ。

2月12日、13日に堺刃物まつりがあります

2011年2月5日 土曜日

 堺特産物である堺打刃物のルーツをたどれば、仁徳稜をはじめ多くの古墳が築かれた5世紀にたどり着くそうです。16世紀にタバコが入ってきたころには切れ味が良いことで全国に名をはせ、鉄砲伝来以降は鉄砲の大生産地になりました。現在でも全国的に有名な打刃物の産地であることに変わりがない。プロの料理人の7~8割は堺打刃物を使っていとか。これほど全国的に名高い堺刃物のまつり”堺刃物まつり”堺刃物商工業協同組合連合会の主催で来る2月12日(土)、2月13日(日)堺市産業振興センター(南海電鉄・地下鉄「中百舌鳥駅」すぐ)で開催されます。

包丁・はさみの研ぎなおし(切れ味の鈍った包丁があれば持っていって研ぎなおしてもらえるかも・伝統工芸士の方が新品同様に研ぎなおしてくれるかの知れません?。要実費?)包丁研ぎ方コーナー 魚のさばき方教室リンゴの皮むき・鉛筆削り大会 マグロ解体・即売、 とれとれ市、 特産品即売コーナー  蕎麦打ち実演・販売 太極拳 健康相談 堺工科高校の鍛造品展、 大示阪伝統的工芸ふるさと体験、等 盛りだくさんなイベントも併せて行われます。年に1回の”堺刃物まつり”です。この際、 さそい合わせて行かれ てはどうでしょうか。

牽午子塚古墳は斉明天皇陵かも

2010年12月20日 月曜日

 奈良・桜井市に用ができたので行ってきた。帰路はいつも竹ノ内峠を通って堺へ帰るのであるが、あまりにも天気が良いので遠回りして飛鳥を通って帰ってきた。飛鳥駅近くの農産物販売所へ入っている時、牽午子塚古墳の南東すぐ(20m)隣で古墳が見つかったのでその説明会に行ってきた話をしているのを耳にはさんだ。数日前からニュースで報じていたのを思い出し、現場はこの近くであるし行って見ようと、近鉄「飛鳥駅」へいき場所を聞いた。現場は駅の西側徒歩15分。1時間グライ待つ覚悟で行ってみてはと教えられた。 

  行き来する人が多いので迷うことなく現場に到着。すぐに見学待ちの行列にくわわった。近くの行列の人の話・グループの人たちに当時の人の関係を詳しく解説する人、旅行で飛鳥に来ているが偶然この古墳の説明会を知りその列に加わっていると東京?の知人に電話する人、全く歴史を忘れただ長い列があるので並んでいる人、気になったのは足元の良くない工事現場の様なところへ、杖をついても満足に歩けないようなよろよろした人が何人も来ていたことである。さらには大型犬を連れた人も前の方に並んでいた。自分の関心を優先させ過ぎではと私の頭は???である。が行列全体は割り込みもなく静かに順番を待つというところであった。 

  待つこと40分で見ることができた。公開日第二日目の終了時刻に近かったせいか解説者は不在で、列の管理や足元注意を促す人がいるだけだった。石棺は大きくて重く、だが蓋になる上の石は4割ぐらいしか残っていなかった。墓床と蓋になる上石とは墓床にホゾ穴があることから、この穴で位置決をし、このホゾ穴に残っていた漆喰がはガタガタするのを防いだか機密性を保つために目地として塗ったか。棺を置くところは一段高く(2~3cm)なっており加工精度が高そうであった。暗渠を設けて水はけを考え、墓道には小石を敷き詰められ、いろいろな配慮のあとが偲ばれる。 

  新聞記事によるとすぐ隣に牽午子塚古墳があるので、この古墳を太田皇女とすれば、日本書紀に記されている斉明天皇陵とそっくりであり、関係者は牽午子塚古墳は斉明天皇陵に間違いなさそうだと云っているが、宮内庁は指定を変えないと言っているそうだ。なぜなら墓誌が見つかっていないからだとか。過去には、文暦2年(1235)に現在の天武天皇・持統天皇陵を盗掘した際に盗賊たちは詳しい内部状況を描き残した。この記録物は「阿不幾乃山陵記」と言い明治13年京都高山寺で発見され、いろいろ検討された結果、それまで天武天皇・持統天皇陵とされていた見瀬丸山古墳から現在の天武天皇陵・持統天皇陵に変更したことがあります。各地に多くの天皇陵がありますが被葬者埋葬者が確からしいのはこの御陵のみらしい。 

 

現地見学を待つ行列高いところが牽午子塚古墳

牽午子塚古墳入口

今回見つかった古墳

少し拡大したもの