2010年7月 のアーカイブ

真夏の結婚式で思ったこと

2010年7月26日 月曜日

 今回は私ごとを述べます。 今風?に言えば、アラセヴンティの私です。われわれ世代は兄弟姉妹が多く、必然的に長子と末っ子ではかなりの年齢差になる。小生の場合長子は昭和5年から末っ子は昭和25年。育った世相は軍国華やかな者から戦後団塊の世代まで。それらの子供たち即ち甥姪達の年齢は50半ばから20歳まで姻族も含めると30余人もいる。職場を卒業して10年余。職場の人たちの結婚も含めて毎年の様に複数の結婚式があり薄給の身にはこたえた。いまでは甥姪達は一部を除きほとんど片付いていて、ここ4・5年は結婚式に出る機会がなかった。

かかってきた電話

 梅雨が始まる少し前頃 妹から電話が入った。やや婚期をのがしていた娘の結婚話が整ったので出席してほしいとのことで、日取りは7月25日。とっさに 天神祭 暑い と思った。家内はすぐ衣裳どうしようといったさすはに女性である。場所は神戸の某ホテル。ところが、すべてが整い涼しい中で進行し、外の暑いことを全く忘れていました。

結婚式の変遷

 わたしの結婚式に対する最初の思い出は、戦争帰りのおじが昭和22年に結婚した時おちょうめちょうで杯に酒を注いでまわる子供を演じたことである。田舎のことでふすまを開ければ大きな部屋になり大きいほうの部屋には仏壇があるので式や宴会はちょうど仏壇の前で行われた様なものである。婚礼や葬式など大きなお客ごとがあると近所に料理を作ったり段取りを進める組織でもあったのか、すべてが近くで調達され宴席は次の日の朝も、そして学校から帰ってきてもつづいていた。こんなことが昭和35年ごろまで続いたろうか、都会では神社の本殿が式場になり宴席は料亭とか・・・。さらに何とか殿という式場ができ、そこへ神社から神主が出かけ、式も披露宴も其処の会館内で。

新婚旅行

 新婚旅行は私の小さいころはなかったように思うが、昭和30年ごろから少しづつはやりだし、有馬、白浜、城崎などが主であったように思う。40年ころは熱海や宮崎が新婚旅行のメッカとなった。大安の日の夕方の大阪駅には必ずと言っていいほど何組かの新婚旅行組がおり、大勢で見送りに来ていた。大人しい組、万歳組や胴上げ組等いろいろ。なぜか必ずと言っていいほど新婦は白い帽子をかぶっていたので、観光地などで帽子を被っているカップルで、いまひとつ溶け込みにぎこちないのは新婚旅行のカップルであると私は決めつけていた。経済成長と対ドル交換比率が進み国内旅行より外国のほうに割安感があり今では新婚旅行と言えば海外旅行を指すぐらいになっている。

末永い幸を願う

 昨日の結婚式で最後に二人の弟たちは姉をお姫様抱っこしたり、家族で写真を撮ったりと、久々に家族の絆、肉親の良さに接し、亡くなった親や肉親たちを思いました。そしてこの光景を一番見てやってほしかったのは今は亡き母である。そしてこの幸せが末永くつづくことを願いました。ここまで思い出すままに書きましたが、これも古希を過ぎて年寄りくさくなってきたからでしょうか。

泉北すえむら資料館

2010年7月22日 木曜日

 昨日暑中見舞いを投函したついでに足を延ばして、大阪府から堺市へ管轄変えになった堺市立泉北すえむら資料館(元大阪府立泉北考古資料館http://www.city.sakai.lg.jp/shisetsu/bunka/049.html)へ行ってきた。梅雨明け十日と言いますが、4・5日しか立っていない暑い暑い日の日中でした。自転車で行った所為か到着と同時に汗が噴き出したが、よく効いた冷房に救われました。展示物が変わったわけではないので、基本的には展示に変更があるわけではないと思われますが、気のせいか素人にも分かり易くなっていた様おもわれた。以前ここの会議室?の様な所で勉強会が行われていましたが、はっきりしませんが今もつづいて入る様です。回を変えてもっとしっかりしたブログ報告を行いたいと思います。

堺市立泉北すえむら資料館入口付近

堺市立泉北すえむら資料館入口付近

堺蚤の市

2010年7月18日 日曜日

 朝早く家内の友人から電話が入った。「地場賑(じばしん)で何かやっているらしいから見にいかへんか」と言うことだった。私はアッシーとして一緒に行った。地場賑には11:00頃着いたところ駐車場はほぼ満員状態だが何とか空きを探して駐車できました。大きい荷物を持って帰る人もチラホラ。会場へ入ると何だかわからないが人がいっぱい居ました。よく見ると古着、骨董、絵画、訳の分からない古い小物、フィルムカメラ等を扱う店が、約2m四方の小間が無数に設けられたその小間の中で商売をしていた。このイベントは堺蚤の市と言い  今回だけでなく定期的に行っていることも分かってきた。場内を回っていると店主との応答など慣れた客も多く見かけられました。小さいころ遊んだようなもの、どこにでもあったような戦争や皇族方の写真入り画報、若いころ欲しかったが高価で買えなかったフィルム写真機(年齢とともに興味もうすれ今ではコンパクトデジカメで十分) など場内を回っていても興味は尽きない。開場は9:00~15:00であるが、9:00から入るには入場料1000円が必要で主に商売人が入る。一般は10:30からで入場料は無料となっている。

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 堺市は明治の初めころは堺県の県庁であったとよく聞きますが、その証拠?の様なものを堺商工会議所本館裏正面側で見つけました。それは明治12年に堺商工会議所の設置願いに対する許可が堺県から下りたのを記念して造られた記念碑がです。写真をご覧ください。

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 会場でもらったはがきから、年間スケジュールは写真に示す様なので計画されては如何でしょうか。

ブログ堺蚤の市開催通知はがき010

突然のインタビュー

2010年7月17日 土曜日

先刻突然インタビューを受けることになりとまどいました。どきどきのままインタビューをうけてしまいました。レジュメ5枚目の 記事を書こう 今見ると、5Wの何個のWが埋められていました。 反面わたしは正体をかなりあばかれました。 さすがその道の達人。

野田城跡

2010年7月16日 金曜日

 先日、南海高野線北野田駅近くに野田城があったということで、城址らしきところを見て歩く機会の恵まれた。場所は北野田駅の東は西除川、南は駅から300mほどのところにある児童公園までうろついた。すべて宅地化されていて石の階段とか石垣などお城を偲ばせられるものには出会えませんでした。しいて言えば、道端の駐車場の端にある大きな楠(樹木医でない小生の推定 めどうり周囲3m以上 樹齢は幹の太さなどから5・700年と見た)があったが、それも落ち葉が少なくなるようにか枝を切られて少々可哀そうに思われた。近くの線路敷地内に写真の様な標柱がありました。それには「南朝野田氏三代の居城」とあった。戦後教育の小生にとって南北朝については習っても深くは知らないので、これから遅ればせではあるがちょっと勉強をしなければと思いました。

近くの線路敷内に横たえられていた標柱

近くの線路敷内に横たえられていた標柱

諏訪大社御柱祭(山出し祭)に行ってきました

2010年7月14日 水曜日

木落とし坂の頂上に現れたおんばしら

木落とし坂の頂上に現れたおんばしら

 長野県の諏訪湖の周辺に諏訪大社がある。普通一つの神社があれば名前は一つであるが、諏訪大社には神社名のもとに上社と下社がある。さらに上社には本宮と前宮、下社には春宮と秋宮がある。諏訪大社と名乗りながら実は四つの神社が別個にあります。    諏訪市に本宮、茅野市に前宮、下諏訪町には春宮と秋宮がある。これまでに諏訪大社へ行かれた方は多いと思いますが、実際どの神社に行かれたのか自信をもって答えられる方は案外少ないのではとおまわれます。御柱祭は上社の二社が四月上旬に山出し祭、約一カ月遅れてと里曳き祭がおこなわれる。下社の二社も一週間程ずれるが同じく山出し祭、里引き祭がおこなわれる。御柱祭は一か月余の長期に亘る祭りなのである。ここ十年余り前から諏訪大社御柱祭が全国的に話題になっているのは、下社の山出し祭において直径約1m余・長さ20mもある御柱を急坂を使って落とす際に、命知らずの氏子たちがその御柱に乗って下りるショッキングな光景が、東京キー局から全国に配信されたからである。この祭りは申年と寅年の実質6年ごとにおこなわれる。御柱の前で縄を引く衆、御柱のすぐ前で柱を扱う綱衆、テコを用いて方向転換を行うテコ衆、御柱のすぐ後ろでやはり御柱を制御する後綱衆、みんなの気持ちを一つにして力を合わせさせる木遣衆が、持ち場持ち場で託された任務を果たしている。これらの総数は何百人から千人を超すかも知れませんが、すべてを指揮するのが総代である。統制がとれているのは実に見事である。次回の祭りは6年先の申年である

尾綱を切られて坂を下る御柱

尾綱を切られて坂を下る御柱

太古の泉北ニュータウンあたり

2010年7月13日 火曜日

 偶然ですが、カシオ電子辞書の日本歴史大辞典をいろいろ見ている時に「陶邑窯跡群」という項に出会った。そこには大阪府の南、堺市、岸和田市、和泉市、大阪狭山市の4市にわたり、泉北丘陵一帯の東西15km南北9kmの範囲に分布するわが国最古最大の須恵器窯跡群の総称。名称は「日本書紀」崇神天皇条に「茅淳県陶邑」(ちぬのあがたのすえむら)とあるところから名づけられている。・・・・・・・・ 略 ・・・・・・・・・・・陶器山、高蔵寺、富蔵、栂、大野池、光明池、谷山池の各地区に区分されており、窯跡の合計は500基を超えておる。大半が泉北ニュータウン造成工事に伴って、大阪府教育委員会などにより発掘調査が行われた。5世紀から9世紀までの須恵器が生産され、時代の変化をみる型式編年の重要な資料となる。 と書かれている。 他に陶荒田神社、陶器山、陶器川、陶器小学校などあり泉北ニュータウンあたりは歴史の古いところでありそうだ。

三回目までの宿題

2010年7月10日 土曜日

1.ブログを三回投稿します。

2.一回は南区の好きなところや面白いところを投稿します。

3.一回は写真を追加します。

 以上でがんばりましょう。!!

練習(4)

2010年7月10日 土曜日

コピー ~ IMG_0012何とかブログを出せるようぬなったみたいです。これからは少しずつレベルアップしていきたいです。これはハウスの全景です。

何とかサイトに出せました

2010年7月10日 土曜日

コピー ~ IMG_0011今日は梅雨の合間のいい天気です。私のブログなど読んでくれる人いるのでしょうか。読んでくれる人がいたら嬉しいな~。