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奈良西吉野の柿博物館

2011年11月22日 火曜日

 8月28日に脳梗塞を発症して入院。その後退院して2か月余、再発がないよう毎日欠かさず薬を飲み、水を呑み、ウォーキングをし、食事は魚野菜中心の減塩食事。アルコールは全くた呑まない。といった毎日である。おかげさまで軽症であったので、ふら付きはあるものの以前の様に歩ける。自転車に挑戦したところ全く違和感なく乗れたの郵便局などは自転車で行っている。自動車運転は自動車学校の先生に横に乗ってもらって技量を見てもらったところマルであったので、駅までたまに家族の送り迎えを行なっていた。 

 このような単調な日常を送っている時、奈良県西吉野の柿博物館へ行こうと云う話が出た。いつでも運転を交代できる様に妻に横に乗ってもらい意を決して行ってみた。片道約1時間、結果は何事もなくいってくることができました。 国道310号を河内長野から金剛トンネルを通って五條へ。さらにそのまま吉野川を「越して南へ数キロ。やがて柿博物館への案内がありそれに従って行くと苦も無く到着。明日23日は柿祭りとかでいろいろ準備していたが博物館見学には支障がなかった。 

博物館全景

 

柿の種類の実物が展示されていた

 

柿渋を使った製品

 

  

中にはいろん種類の柿の実の実物が展示されていた。後でちかくで作業をしている方に聞くと全国に約7000種類もあると聞き驚いた。 また、昔から柿から取れる柿渋で防水紙とか渋うちわとか、染物等が展示されていた。 

選果場内風景

 

直売所全景 キャンペーンポスター

 

選外品を選定中の人

 

  

                                                                                                                                                                                                                            この博物館の近くに柿の共同選果場があり、選外品は一般販売していることを知りそこへ行くこととした。数分で到着。既に多くの車が来て直販所は大変賑わっていた。正式に箱詰めされたものから、選外だが十分販売に耐えられるものまでいろいろあった。選外だが程度の傷の有無、熟し過ぎ、虫喰いや変形の違いによって、キロ当たり100円~300円までいろいろ。わが家と2階の息子一家用に選外品を手に入れて帰ってきた。自分で無事帰ってこられたことから、少しは行動範囲を広げても良いのかなと、明るい気分です。 

 

柳沢文庫(大和郡山市)へ行ってきました

2011年7月13日 水曜日

 大和郡山城はかつては大納言豊臣秀長の城であったが、徳川の世の1724(享保9)柳沢氏が転封されてきて以来柳沢氏の居城となり、明治までつづいた。その間、何名かを柳生家の養子に送り、柳生家の継続に役立っています。その柳生家の関係者が、鳥羽伏見の戦いに行く途中、現在の井手町(京都と奈良の中間)あたりで聞いた戦況を認めて藩へ送った手紙が、この程発見され柳沢文庫(郡山城址内)で展示されていることを新聞で知ったので行ってきた。 

書状を紹介する新聞記事では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、「終(つい)ニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み・・・・。とあるそうだ。残念ながら私にはくずし字が読めません。145年前の歴史として中学時代と高校時代に習ったことがらであるのに・・・。現代文に翻訳された文がフリカナの様に書いてくれていましたから内容を理解できました。読んでいるうちにその時代に居るかの様な錯覚やら・緊張が走りました。9月18日(日)まで展示してしていますので、興味ある方は柳沢文庫まで行かれてはいかがでしょう。

 

7年前まで郡山市に住んでいたので懐かしい思いでその辺りを歩いてみた。ここの桜は奈良では名高いところである。20年ほど前長男の入社式が、4月1日に東京新宿であったので一番電車に乗せるため近鉄郡山駅まで家族全員で送った事がある。そのあと朝早くて誰もいない城跡の満開で見事な桜を見た見たことがあります。忘れられない思い出です。今は夏草が生えているところが多いが、ここの梅林も見ものである。梅の実はすべて取られてしまうのですが、なぜか一本だけ色づいた梅の実が鈴なりなのがありました。子どもの頃の様に取って食べてみたいと思いましたが・・・・・。

これ何 チン百景

2011年5月23日 月曜日

「木に竹を接ぐ」とは、性質の異なったものを接ぎ合わせる意から、物事の不調和なこと、条理の通らないことにいう。と広辞苑に書かれています。ところが去る1月、30年来趣味として続けているアマチュア無線クラブの新年会が奈良市であったので奈良へ出かけた。予定より早く奈良へ着いたので奈良公園を散策している時、写真の様な 木? 竹? を見つけた。まさに木から竹が生えているのに驚いた。こんなことあるの?とにわかには信じられませんでした。毎年正倉院展等が開催される博物館の近くにありますから、一見されては如何でしょう。

 

牽午子塚古墳は斉明天皇陵かも

2010年12月20日 月曜日

 奈良・桜井市に用ができたので行ってきた。帰路はいつも竹ノ内峠を通って堺へ帰るのであるが、あまりにも天気が良いので遠回りして飛鳥を通って帰ってきた。飛鳥駅近くの農産物販売所へ入っている時、牽午子塚古墳の南東すぐ(20m)隣で古墳が見つかったのでその説明会に行ってきた話をしているのを耳にはさんだ。数日前からニュースで報じていたのを思い出し、現場はこの近くであるし行って見ようと、近鉄「飛鳥駅」へいき場所を聞いた。現場は駅の西側徒歩15分。1時間グライ待つ覚悟で行ってみてはと教えられた。 

  行き来する人が多いので迷うことなく現場に到着。すぐに見学待ちの行列にくわわった。近くの行列の人の話・グループの人たちに当時の人の関係を詳しく解説する人、旅行で飛鳥に来ているが偶然この古墳の説明会を知りその列に加わっていると東京?の知人に電話する人、全く歴史を忘れただ長い列があるので並んでいる人、気になったのは足元の良くない工事現場の様なところへ、杖をついても満足に歩けないようなよろよろした人が何人も来ていたことである。さらには大型犬を連れた人も前の方に並んでいた。自分の関心を優先させ過ぎではと私の頭は???である。が行列全体は割り込みもなく静かに順番を待つというところであった。 

  待つこと40分で見ることができた。公開日第二日目の終了時刻に近かったせいか解説者は不在で、列の管理や足元注意を促す人がいるだけだった。石棺は大きくて重く、だが蓋になる上の石は4割ぐらいしか残っていなかった。墓床と蓋になる上石とは墓床にホゾ穴があることから、この穴で位置決をし、このホゾ穴に残っていた漆喰がはガタガタするのを防いだか機密性を保つために目地として塗ったか。棺を置くところは一段高く(2~3cm)なっており加工精度が高そうであった。暗渠を設けて水はけを考え、墓道には小石を敷き詰められ、いろいろな配慮のあとが偲ばれる。 

  新聞記事によるとすぐ隣に牽午子塚古墳があるので、この古墳を太田皇女とすれば、日本書紀に記されている斉明天皇陵とそっくりであり、関係者は牽午子塚古墳は斉明天皇陵に間違いなさそうだと云っているが、宮内庁は指定を変えないと言っているそうだ。なぜなら墓誌が見つかっていないからだとか。過去には、文暦2年(1235)に現在の天武天皇・持統天皇陵を盗掘した際に盗賊たちは詳しい内部状況を描き残した。この記録物は「阿不幾乃山陵記」と言い明治13年京都高山寺で発見され、いろいろ検討された結果、それまで天武天皇・持統天皇陵とされていた見瀬丸山古墳から現在の天武天皇陵・持統天皇陵に変更したことがあります。各地に多くの天皇陵がありますが被葬者埋葬者が確からしいのはこの御陵のみらしい。 

 

現地見学を待つ行列高いところが牽午子塚古墳

牽午子塚古墳入口

今回見つかった古墳

少し拡大したもの