‘トピックス’ カテゴリーのアーカイブ

出羽海部屋の朝稽古を見学しました(堺:祥雲寺)

2012年3月2日 金曜日

大阪場所の稽古場見学のこと、大相撲出羽の海部屋の大阪場所の宿舎として祥雲寺であることを知った。そして午前6時から10時ごろまで朝稽古をやっているとも聞いた。翌日、物は試しと少し遅くなりましが見学に出かけた。到着したのは9時30分ごろであったが、土俵の中では白鵬関が若い者に稽古を付けている最中であった。そして土俵の周りには30人程の力士が、一番が終われば、次は自分と手ぐすね引て待っている。身体がぶつかる音、荒い息づかい、叱咤の声、激励の声等、TVで見る相撲とは全く異なり、厳しさも伝わってくる。しばらくして白鵬関と数名の力士が出て行った。

実は白鵬関の宮城野部屋は宿院頓宮が稽古場だそうで、そちらへ帰って行ったのだそうだ。今、出羽の海部屋はいわる関取が居ないので出稽古で稽古をつけてやりに来ていたようです。白鵬関を見られたのは全くラッキーなめぐり合わせであった。朝稽古は例年ならば、放駒部屋は八田北自治会館、陸奥部屋は出雲大社大阪分祀、追手風部屋は百舌鳥八幡宮、春日山部屋は東光学園、白鵬の宮城野部屋は頓宮、等で見学できた様ですが、昨年の大阪場所がなかったので今年はどうでしょうか。1年に1回のチャンスですから、少し早起きして見学に出かけてみてはいかがでしょう。   (写真の上に矢印を移動させて、矢印が手の形に変わると、クリックすると大きい写真が表示されますよ。)

稽古場土俵の全景

稽古を付ける横綱白鵬関
   

 

稽古を付ける横綱白鵬関

見学席と土俵の様子 

 
 

 

   
 
 
 
    

稽古場から車へ移動中のファンとの束の間の交流

 

  

 

 

 

大阪場所の出羽海部屋(堺:祥雲寺)

2012年2月29日 水曜日

堺南荘 祥雲寺(堺市堺区大町東4丁目2-7。豪商谷正安の依頼によって1625年に沢庵和尚が建てた名刹だが、第二次大戦で被害を受けた。)は、毎年3月に大相撲大阪場所の出羽の海部屋の稽古場として使われます。こんなことを耳にはさんだので早速行ってみた。

 住宅の多い地域にあるのですが、近くまで行くと部屋の幟(のぼり)が5~6本立っているのですぐに分かった。周りに聞ける人が誰もいないので、恐る恐る門より入っていくと右手に倉庫の様な建物があり、入口右に「出羽海部屋修養道場」がかかっており、確かにここであることが分かった。建物の入口の左奥には土俵がありましたが稽古はしておらず力士は1人も居なかった。

出羽の海部屋ののぼり

 

祥雲寺 正面

 建物の中から声が聞こえているが、特に誰かに合うと言った用があるわけではないので、建物には入らずガラス越しに土俵をながめたり、土俵のある場内の様子をよく見て雰囲気を感じようとしていた。その時一人の力士と50歳位の女性が出てきたのでお掛けして二言三言言葉を交わした。出てきた力士は宮城県出身の「藤の海関」で「藤の花関」との双子の力士であることが分かった。

稽古が終って整備されている土俵

藤の花 藤の海 の双子の兄弟力士 

稽古時間は、早朝6時から10時ごろまでで今の時刻(午後2時ごろ)は稽古しない。特に制限などありませんから稽古を見に来てやってください。とその女性が勧めてくれました。朝6時はちょっと早すぎるが、まだ大阪場所中は開いているはずですから1度見学したいと思っています。興味のあるかたは見学してみてはいかがでしょう。

柳沢文庫(大和郡山市)へ行ってきました

2011年7月13日 水曜日

 大和郡山城はかつては大納言豊臣秀長の城であったが、徳川の世の1724(享保9)柳沢氏が転封されてきて以来柳沢氏の居城となり、明治までつづいた。その間、何名かを柳生家の養子に送り、柳生家の継続に役立っています。その柳生家の関係者が、鳥羽伏見の戦いに行く途中、現在の井手町(京都と奈良の中間)あたりで聞いた戦況を認めて藩へ送った手紙が、この程発見され柳沢文庫(郡山城址内)で展示されていることを新聞で知ったので行ってきた。 

書状を紹介する新聞記事では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、「終(つい)ニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み・・・・。とあるそうだ。残念ながら私にはくずし字が読めません。145年前の歴史として中学時代と高校時代に習ったことがらであるのに・・・。現代文に翻訳された文がフリカナの様に書いてくれていましたから内容を理解できました。読んでいるうちにその時代に居るかの様な錯覚やら・緊張が走りました。9月18日(日)まで展示してしていますので、興味ある方は柳沢文庫まで行かれてはいかがでしょう。

 

7年前まで郡山市に住んでいたので懐かしい思いでその辺りを歩いてみた。ここの桜は奈良では名高いところである。20年ほど前長男の入社式が、4月1日に東京新宿であったので一番電車に乗せるため近鉄郡山駅まで家族全員で送った事がある。そのあと朝早くて誰もいない城跡の満開で見事な桜を見た見たことがあります。忘れられない思い出です。今は夏草が生えているところが多いが、ここの梅林も見ものである。梅の実はすべて取られてしまうのですが、なぜか一本だけ色づいた梅の実が鈴なりなのがありました。子どもの頃の様に取って食べてみたいと思いましたが・・・・・。

これ何 チン百景

2011年5月23日 月曜日

「木に竹を接ぐ」とは、性質の異なったものを接ぎ合わせる意から、物事の不調和なこと、条理の通らないことにいう。と広辞苑に書かれています。ところが去る1月、30年来趣味として続けているアマチュア無線クラブの新年会が奈良市であったので奈良へ出かけた。予定より早く奈良へ着いたので奈良公園を散策している時、写真の様な 木? 竹? を見つけた。まさに木から竹が生えているのに驚いた。こんなことあるの?とにわかには信じられませんでした。毎年正倉院展等が開催される博物館の近くにありますから、一見されては如何でしょう。

 

大阪マラソンのコースが決定 & 走者募集

2011年2月9日 水曜日

  堺の街中を歩いていて大阪マラソンのパンフを手に入れた。それは、大阪の街興し(?)として大阪マラソンが昨年提唱された様に思う。、この程そのコースが発表されました。そして30,000人のランナーを募集するそうです。全国には走ることを趣味とする多くの人がいるので、この人達が大阪マラソンに参加して大いに盛り上げてほしいと願っています。コースは大阪市内のめぼしいところを廻ったうえで南下し、玉出、北加賀屋、住之江公園を巡り、南港インテックス大阪を終点とするものです。

  ところで、コースに物足りないものを感じませんか。インテックス大阪を終点にではなく、住之江公園からさらに南下して、大和川を渡り、路面電車を見ながら大浜公園等を巡り、仁徳陵のある大仙公園を終点にするコースは如何でしょう。有名な堺打刃物や御菓子屋さん、そして世界遺産に登録を目指している仁徳陵はじめとする百舌鳥古墳群などを全国にアピールできるコースがとれるのに、それができないのは残念と思います。

 主催者には大阪府、大阪市、大阪陸上競技協会だから仕方がなかったのでしょうか。なぜ政令市である堺市が主催者に加われなかったのか。堺市にその能力なしと見たのか。大阪府も主催に加わっているのに外見的には大阪市の行事としか見えません。ケチを付ける積りはありませんが大阪府(知事)にはもっとバランス感覚をもってほしいなーと思いました。こんなこと思うのは自分だけでしょうか。

堺蚤の市

2010年7月18日 日曜日

 朝早く家内の友人から電話が入った。「地場賑(じばしん)で何かやっているらしいから見にいかへんか」と言うことだった。私はアッシーとして一緒に行った。地場賑には11:00頃着いたところ駐車場はほぼ満員状態だが何とか空きを探して駐車できました。大きい荷物を持って帰る人もチラホラ。会場へ入ると何だかわからないが人がいっぱい居ました。よく見ると古着、骨董、絵画、訳の分からない古い小物、フィルムカメラ等を扱う店が、約2m四方の小間が無数に設けられたその小間の中で商売をしていた。このイベントは堺蚤の市と言い  今回だけでなく定期的に行っていることも分かってきた。場内を回っていると店主との応答など慣れた客も多く見かけられました。小さいころ遊んだようなもの、どこにでもあったような戦争や皇族方の写真入り画報、若いころ欲しかったが高価で買えなかったフィルム写真機(年齢とともに興味もうすれ今ではコンパクトデジカメで十分) など場内を回っていても興味は尽きない。開場は9:00~15:00であるが、9:00から入るには入場料1000円が必要で主に商売人が入る。一般は10:30からで入場料は無料となっている。

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 堺市は明治の初めころは堺県の県庁であったとよく聞きますが、その証拠?の様なものを堺商工会議所本館裏正面側で見つけました。それは明治12年に堺商工会議所の設置願いに対する許可が堺県から下りたのを記念して造られた記念碑がです。写真をご覧ください。

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 会場でもらったはがきから、年間スケジュールは写真に示す様なので計画されては如何でしょうか。

ブログ堺蚤の市開催通知はがき010