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岡山へ行き と 現在の健康報告

2012年4月16日 月曜日

 岡山へ嫁いだ娘から、一番下の孫が4月に入学するので来てやってな、と言われていたが、これまでどの孫たちの入学にも出向いたことがなかったので、行くつもりはなかった。間近になって病気(脳梗塞)のことが気になり、今度症状が出ると(歌手の西条秀樹さんも最近2回目の発症がありリハビリ中であることを新聞で知っていた。)自力で岡山へ行く事が出来なくなるかも知れないと思い出し、急にではあったが岡山へ行ってきた。

 朝電話をして、昼過ぎから車で出かけた。200kmの道のりを休憩を多く取りながら自分で運転して3時間半ぐらいで無事到着した。入学式前夜はランドセルを背負ったり、帽子をかぶったり、名札やその他もろもろいじりまわし明日が待ち遠しい様子であった。 翌朝は正装して両親とともに学校へ行った。私は家の前で写真を撮ることと、学校まで車での送迎が役目。 私の入学は戦後間もない昭和21年4月の国民学校。ランドセルは兵隊さんが持ち帰った背嚢を縫い直して子どもの体に合わせてもらったもの、田舎の木造校舎のガラスは割れ、床の一部に穴が開いていた記憶がある。

 折角だからと空いた時間に家内と二人で岡山城へ花見に出かけた。場内の桜はどの桜も満開で休日であればかなりの人出であっただろうと思われた。 天守閣や場内の散策は全く病気のことを気にすることなく普通に動けたことで、健康のありがたさをつくずく思いました。 後遺症が残っていればこうはいかなかったであろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨年8月脳梗塞を発症以来半年余が過ぎた。薬(バイアスピリン)をのむ、減塩で野菜中心、肉より魚の食事、、禁アルコール、水分を良く摂る、適度な運動(毎日約1時間6000歩)をする、などに努め、お陰さまで麻痺は無く、歩く、自転車に乗る、車を運転する、等全く普通の生活ができています。色々心配いただいた方もいますので現状を綴って報告としたいと思う。

 

堺の昔の街並みの絵が展示されています

2012年1月6日 金曜日

 堺市の住民で商人であり画家でもあった岸谷勢蔵氏(1899-1980)が残した、昔の堺の様子がわかる絵が堺市博物館で展示されています。なかでも昭和19年(1944)堺市の依頼により、宿院の建物疎開前の景観を描いた疎開地区記録は、戦前の堺の町の様子を知る上で貴重なものだそうです。堺市博物館を訪ねて堺の町の豊かさを見て見ませんか。展示は2月5日(日)まで。展示品解説は1月22日(日)14時から行なわれます。博物館は大仙公園内にあります。最寄駅は阪和線百舌鳥駅より徒歩6分。

一字違うと大違い

2011年6月8日 水曜日

 先日、早朝のラヂオ放送、1179MHz MBSの 子守康範の朝からてんこもり を聞いていたとき、リスナーからの投書で、番組HPに女性の相棒さんの おだ しずえ さんの「す」になっており おだ しすえ と なっています。お出汁吸えと読めるので気になります。とのことでした。さっそく修正しますという子守さんの言葉で終了した。たったこれだけのことだが、小生は過去の失敗を思い出した。

 頃は昭和30年代中頃、当時はJRは国鉄と言っていた。東京へ行くには大阪駅から特急か急行に乗っていくのが普通であった。8~9時間ぐらいはかかったと思う。したがって午後9時ごろから12頃までは九州や中国地方からの列車も含めて夜行の東京行き列車が多く走っていた。そんな頃、職場で宿直をしていたある日の夜中、電報配達員さんに起こされた。受け取った電報は所長あてで、文面は「ミトウシヨシスキハラ」となっていた。電文は一字いくらという字数で費用が決まったのでできるだけ短くしたと思う。小生はこれを「ミトウシヨ シス キハラ」と解釈した。みと うしよ さんが亡くなったことを木原さんが知らせてくれたのだと。二十歳すぎの若僧、未熟だが業務としてお知らせしなければと思い、夜中ではあったがどきどきしながら所長(定年少し前で普段は遠くからお顔は見ていても話などしたこともない雲の上の様な存在であった)に電話でれんらくした。しかし思い当たるフシがないとのこと。

 翌日午前所長に電報をお渡ししたが、ただ首をかしげるだけでした。ところが間もなく謎が解けました。東京へ予算獲得のための陳情に行っていた「杉原」さんが帰所したからである。陳情後大阪行き列車に乗る前に(前夜)、東京から陳情時の感触を電報で所長に知らせたのであった。正しい解釈は「見通し良し 杉原」であった。電文で「一字開ける」ことやすぎの「濁点(゛)」をいれるのも一字とカウントされていたので経費節減の結果であったのだろう。当時大阪と東京を電話でつなぐ場合も、普通ではなく特急とか急報扱いでも半日ぐらいかかったと思いますし費用も高かったのです。現在では考えられない出来事でした。つい数十年前までこんな生活であった。国内は言うに及ばず世界中へリアルタイムで電話がかけられる今は凄い世の中になったものですね。

地震に思う

2011年3月30日 水曜日

 奈良からの帰り、ボリュウムを上げてCDを聞きながら帰ってきた。家の近くの自動車屋さんへ寄り、オイル交換を頼んで待っている時のことである。待合室のロビーの遠くのTVで女性アナウンサーが、何処かの自治体の総務課長の様な立場の方に電話でインタビューしていた。内容は分かりませんがしきりに執拗に聞いているようであった。待ち時間が長くなってきたので、新聞でも読もうかとTVの近くへ寄って行って初めて今回の地震を知りました。4時ごろだったと思います。しばらくTVを見ていてようやく内容が理解できるようになった。なんと前代未聞の巨大地震が発生したとのことであった。その時、先刻までCDを聞きながら鼻歌交じりの気持ちであったのが、どこか済まない様な心持になりました。

災害のTV報道

 その夜はご多分にもれずTVにくぎ付けになった。以来今日まで涙なしにはTVを見られない。だが取材場所が変わるけれども、どの地域からの映像も津波が押し寄せいろんなものが押し流される場面が殆どであった。数日間はこの状態が変わらなかった。地震による被害は海岸だけで内陸部にはなかったのだろうかと思わせる風であった。過去最大級の地震だから内陸部も被害があるはずと思っていた。新聞には茨城県の内陸部の避難場所は報道されないから物資は届かないとか。同じように地震にあった長野県栄村の報道も全くない。地震発生10日も過ぎて物資が動き出しているが、やはりTVによく映ったところに偏っているようである。報道各社は配慮すべきと思う。

16年前

 実は16年前に生家が地震で全壊し、母、おば、従兄弟を亡くしました。生活物資をもって持てるだけ持って震災地へ、公民館で何日も泊まり、崩れた家の解体と資材搬出にも行きました。寝た場所は公民館の入口近くであったので人が通るとすぐ目が覚め、TVカメラが来るとその辺りから館内を狙って映像を撮るなど、落ち着かない場所であった。

そこで思うこと

 その頃に思ったこと ①TVによく映るところはどんどん援助物資が来るが放映されないところには来ない。 ②トイレが溢れて問題があった。数多くはほしい。 ③報道は避難所内を撮るときは中の人の感情に思いを働かすべし。 ④インタビューを受けた人から見ると、記者は熱心に聞くが、横から話が入ると全く異なった話しなり、先ほどまでの話は何だったのかとだんだん信用されなくなる。 ⑤ブルーシートが欲しいと言われ、わが家近くのホームセンターでブルーシートを探したが品切れ。長野県の知人に電話し宅配便ですぐに送ってもらって翌日持って行った。品切れ品は遠くの人に頼むべし。 ⑥持参したのは すぐに食べられる寿司とか、手を加えた野菜や食糧、電池、懐中電灯、ポケットラジオ、ホッカイロ、カップめん、干し飯、ウェットティシュウ。 ⑦避難者は病人ではないので、何班にも分けて各班に自治をもたせ連絡、配布、掃除など自分たちでできることは手分けして行うべきと思った。  

 それにしても前代未聞の原発事故 おおごとにならずに 速く終息することを願うばかりです。

私の高校受験

2011年3月14日 月曜日

 ずいぶん古い話になるが、この時期になると毎年高校受験のことを思い出します。時は昭和30年(1955)3月。田舎の中学校の卒業式(3月15日)がおわった次の日かその次の日が高校入試だったと思う。神戸の高校を受験したので、神戸に宿泊したが、神戸に親類・知り合いは無かったので、奉公に出ていた兄の親方の家にお世話になりました。その時のことである。

 卒業式後大急ぎで必要なものを整え、大きくなった荷物をもって(担いで)兄の店(東尻池)を訪ねた(初めて一人で神戸へ行ったので、両親から道順を書いてもらい、何回も何回も口で教えてもらい心細い出発でした)。店で兄の仕事が終わるのを待って、泊めてもらう家(兵庫区平野・市電終点から10分ぐらいだったか)へ向かった。細い路地裏の奥まったところで、丁度目指す家の前まで来た時におまわりさんに呼び止められた。兄貴はハンチングにジャンバー姿。私は学生服で丸坊主・大きい風呂しき荷物を担いでいる。あやしい二人と思ったのだろう。

 荷物の中は文房具や着替え三晩(私の場合三日間試験があった)お世話になるおコメ、そして両親から預かってきた親方にお渡しするお土産等でした。問題はコメ(白米)である。当時は米穀通帳(今の若い方に話しても通じません)で食料を調達していた時代で、コメ現物を持ち歩くのは不法でヤミであるとされていた。ただし、農家の人(私は農家の子)は基本的に米穀通帳はありませんので移動するときは自分が消費するコメを持ち歩いた。(修学旅行で旅館に着いた時大きいシートを広げ、みんなが持ってきたコメを出したことも思い出だします。)

 おコメがあるので、いくら事情を説明しても分かってもらえず困っている時、表の気配を感じたのか家の中から奥さんが出てきてくれて事情を話してくれたことでようやくおさまりました。その晩はいろいろあって興奮・緊張がなかなか収まりませんでした。幸い合格でき三年間神戸でいい高校生活を過ごせました。その後兄の奉公先の親方には神戸での保証人や親代りを担ってもらうなど、大変お世話になり感謝しています。