大和郡山城はかつては大納言豊臣秀長の城であったが、徳川の世の1724(享保9)柳沢氏が転封されてきて以来柳沢氏の居城となり、明治までつづいた。その間、何名かを柳生家の養子に送り、柳生家の継続に役立っています。その柳生家の関係者が、鳥羽伏見の戦いに行く途中、現在の井手町(京都と奈良の中間)あたりで聞いた戦況を認めて藩へ送った手紙が、この程発見され柳沢文庫(郡山城址内)で展示されていることを新聞で知ったので行ってきた。
書状を紹介する新聞記事では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、「終(つい)ニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み・・・・。とあるそうだ。残念ながら私にはくずし字が読めません。145年前の歴史として中学時代と高校時代に習ったことがらであるのに・・・。現代文に翻訳された文がフリカナの様に書いてくれていましたから内容を理解できました。読んでいるうちにその時代に居るかの様な錯覚やら・緊張が走りました。9月18日(日)まで展示してしていますので、興味ある方は柳沢文庫まで行かれてはいかがでしょう。
7年前まで郡山市に住んでいたので懐かしい思いでその辺りを歩いてみた。ここの桜は奈良では名高いところである。20年ほど前長男の入社式が、4月1日に東京新宿であったので一番電車に乗せるため近鉄郡山駅まで家族全員で送った事がある。そのあと朝早くて誰もいない城跡の満開で見事な桜を見た見たことがあります。忘れられない思い出です。今は夏草が生えているところが多いが、ここの梅林も見ものである。梅の実はすべて取られてしまうのですが、なぜか一本だけ色づいた梅の実が鈴なりなのがありました。子どもの頃の様に取って食べてみたいと思いましたが・・・・・。