‘歴史のこと’ カテゴリーのアーカイブ

柳沢文庫(大和郡山市)へ行ってきました

2011年7月13日 水曜日

 大和郡山城はかつては大納言豊臣秀長の城であったが、徳川の世の1724(享保9)柳沢氏が転封されてきて以来柳沢氏の居城となり、明治までつづいた。その間、何名かを柳生家の養子に送り、柳生家の継続に役立っています。その柳生家の関係者が、鳥羽伏見の戦いに行く途中、現在の井手町(京都と奈良の中間)あたりで聞いた戦況を認めて藩へ送った手紙が、この程発見され柳沢文庫(郡山城址内)で展示されていることを新聞で知ったので行ってきた。 

書状を紹介する新聞記事では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、「終(つい)ニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み・・・・。とあるそうだ。残念ながら私にはくずし字が読めません。145年前の歴史として中学時代と高校時代に習ったことがらであるのに・・・。現代文に翻訳された文がフリカナの様に書いてくれていましたから内容を理解できました。読んでいるうちにその時代に居るかの様な錯覚やら・緊張が走りました。9月18日(日)まで展示してしていますので、興味ある方は柳沢文庫まで行かれてはいかがでしょう。

 

7年前まで郡山市に住んでいたので懐かしい思いでその辺りを歩いてみた。ここの桜は奈良では名高いところである。20年ほど前長男の入社式が、4月1日に東京新宿であったので一番電車に乗せるため近鉄郡山駅まで家族全員で送った事がある。そのあと朝早くて誰もいない城跡の満開で見事な桜を見た見たことがあります。忘れられない思い出です。今は夏草が生えているところが多いが、ここの梅林も見ものである。梅の実はすべて取られてしまうのですが、なぜか一本だけ色づいた梅の実が鈴なりなのがありました。子どもの頃の様に取って食べてみたいと思いましたが・・・・・。

山口家住宅に季節の花が生けられていますよ

2011年6月13日 月曜日

11日に堺市立町屋歴史館で国の重要文化財である 山口家住宅(国内最古級の民家ーー大坂夏の陣直後の建築ーーで築約400年)へ行ってきました。季節の花菖蒲を生けられていました。もともとからあの紫色が好きな私なので、雨模様で入館者も少なかったのでゆっくりながめてきました。興味のある方は行かれては如何でしょう。季節のものなので何時まで生けられているのか分かりません。(場所はチンチン電車「綾ノ町」の近く堺市堺区錦之町東1-2-31、電話072-224-1155、休:火曜日、入場料:200円。ただし65歳以上、中学生以下、障がい者は無料)   

玄関に飾られた琵琶

山口家住宅(重要文化財)

 

窓際に生けられた菖蒲

窓際に飾られた菖蒲

 

擁護璽ー津波の怖さを後世に知らせる碑

2011年4月27日 水曜日

 3月11日午後2時46分に宮城県沖を震源とする前代未聞の巨大地震が起こり、三陸から福島県にかけて海岸が壊滅的な被害を受けた。さらに福島県の原発も被害を受け放射能被害が出ている。内陸部は地震の被害、海岸部は地震と津波の被害、原発の近くでは地震・津波・さらに放射能被害がある。以前から地震が起きたら津波被害が出ると言われていた地域であるが、二重、三重と被害が重なり大変お気の毒に思う。

 こんな時、岩手県宮古市重茂半島姉吉地区(本州最東端)に津波に対する注意喚起の碑があるのが報道され話題となっている。

大津波記念碑

高き住居は 児孫に和楽、想え惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな。 

明治29年にも、昭和8年にも、津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、 

僅かに 前に2人、後ろに4人のみ 幾歳経るとも要心あれ。

(この様な内容の碑は、青森県から宮城県にいたる三陸海岸各地に200基ほど建てられているそうです)

 ところで、話は堺市大浜公園は蘇鉄山。ここに「擁護璽」(ようごじ)という碑が建てられている。この碑には

嘉永七年六月十四日(1854)地震があった。114日、5日にも強い地震があり、沖の方が恐ろしく鳴り響き、津波が起って川筋へ激しく入り込み、また引きも激しく、多くの船の碇綱、艫綱切れ、あちこち突きあたって橋は八つも壊れ言いつくせないくらい。地震と津波で多くの家、土蔵が壊れたが、里人たちは神社の広場に集まり避難した。お陰で怪我をしたり死んだ人が居なかったので大変ありがたいことであった。他所の入江や川筋では避難のために小舟に乗って安心していたが、津波によって大船が入込み、下敷きとなって命を落とした者数知れず。

どんなことがあっても、地震が強い時は船に乗って避難してはならない。宝永年間にも今回と同じようなことがあったと聞いている。この様な例で明らかなように、地震が強い時は、津波があることを知るべきである。堺の人びとが無事であったことが有りがたく、産土神の神明宮、三村宮、天満宮にその喜びの幣を捧げ、後の世も災いが無いことを祈って賜ったおしで()をここにまつるのである。(原文は江戸時代の漢字仮名交じり文。現代語訳したものから要約。他の史料では被害が出てらしい。)と書かれている。後世の人々に地震・津波災害への注意を促し、将来も堺の町が無事である様に祈って建立されたものと思われる。

大浜公園にある擁護璽

擁護璽の裏側

これと同じ嘉永七年の地震・津波で大被害を受けた大坂城下の様子は、現在の大正橋東詰に「大地震両川口津波記」なる碑に長文で示されている。木津川や安治川河口に停泊していた千石船が河川を逆流。橋を次々破壊しながら内陸の道頓堀まで運ばれけが人や死者は数知れずとのこと。大地震の節は津波起こらんことを心得、船に乗るべからず。後の人の心得に。

 これらの碑はいずれも災害の大きさ・悲惨さを示し、同じ災害を被らない様後世の人たちの注意を喚起している様に思われる。

地震に思う

2011年3月30日 水曜日

 奈良からの帰り、ボリュウムを上げてCDを聞きながら帰ってきた。家の近くの自動車屋さんへ寄り、オイル交換を頼んで待っている時のことである。待合室のロビーの遠くのTVで女性アナウンサーが、何処かの自治体の総務課長の様な立場の方に電話でインタビューしていた。内容は分かりませんがしきりに執拗に聞いているようであった。待ち時間が長くなってきたので、新聞でも読もうかとTVの近くへ寄って行って初めて今回の地震を知りました。4時ごろだったと思います。しばらくTVを見ていてようやく内容が理解できるようになった。なんと前代未聞の巨大地震が発生したとのことであった。その時、先刻までCDを聞きながら鼻歌交じりの気持ちであったのが、どこか済まない様な心持になりました。

災害のTV報道

 その夜はご多分にもれずTVにくぎ付けになった。以来今日まで涙なしにはTVを見られない。だが取材場所が変わるけれども、どの地域からの映像も津波が押し寄せいろんなものが押し流される場面が殆どであった。数日間はこの状態が変わらなかった。地震による被害は海岸だけで内陸部にはなかったのだろうかと思わせる風であった。過去最大級の地震だから内陸部も被害があるはずと思っていた。新聞には茨城県の内陸部の避難場所は報道されないから物資は届かないとか。同じように地震にあった長野県栄村の報道も全くない。地震発生10日も過ぎて物資が動き出しているが、やはりTVによく映ったところに偏っているようである。報道各社は配慮すべきと思う。

16年前

 実は16年前に生家が地震で全壊し、母、おば、従兄弟を亡くしました。生活物資をもって持てるだけ持って震災地へ、公民館で何日も泊まり、崩れた家の解体と資材搬出にも行きました。寝た場所は公民館の入口近くであったので人が通るとすぐ目が覚め、TVカメラが来るとその辺りから館内を狙って映像を撮るなど、落ち着かない場所であった。

そこで思うこと

 その頃に思ったこと ①TVによく映るところはどんどん援助物資が来るが放映されないところには来ない。 ②トイレが溢れて問題があった。数多くはほしい。 ③報道は避難所内を撮るときは中の人の感情に思いを働かすべし。 ④インタビューを受けた人から見ると、記者は熱心に聞くが、横から話が入ると全く異なった話しなり、先ほどまでの話は何だったのかとだんだん信用されなくなる。 ⑤ブルーシートが欲しいと言われ、わが家近くのホームセンターでブルーシートを探したが品切れ。長野県の知人に電話し宅配便ですぐに送ってもらって翌日持って行った。品切れ品は遠くの人に頼むべし。 ⑥持参したのは すぐに食べられる寿司とか、手を加えた野菜や食糧、電池、懐中電灯、ポケットラジオ、ホッカイロ、カップめん、干し飯、ウェットティシュウ。 ⑦避難者は病人ではないので、何班にも分けて各班に自治をもたせ連絡、配布、掃除など自分たちでできることは手分けして行うべきと思った。  

 それにしても前代未聞の原発事故 おおごとにならずに 速く終息することを願うばかりです。

牽午子塚古墳は斉明天皇陵かも

2010年12月20日 月曜日

 奈良・桜井市に用ができたので行ってきた。帰路はいつも竹ノ内峠を通って堺へ帰るのであるが、あまりにも天気が良いので遠回りして飛鳥を通って帰ってきた。飛鳥駅近くの農産物販売所へ入っている時、牽午子塚古墳の南東すぐ(20m)隣で古墳が見つかったのでその説明会に行ってきた話をしているのを耳にはさんだ。数日前からニュースで報じていたのを思い出し、現場はこの近くであるし行って見ようと、近鉄「飛鳥駅」へいき場所を聞いた。現場は駅の西側徒歩15分。1時間グライ待つ覚悟で行ってみてはと教えられた。 

  行き来する人が多いので迷うことなく現場に到着。すぐに見学待ちの行列にくわわった。近くの行列の人の話・グループの人たちに当時の人の関係を詳しく解説する人、旅行で飛鳥に来ているが偶然この古墳の説明会を知りその列に加わっていると東京?の知人に電話する人、全く歴史を忘れただ長い列があるので並んでいる人、気になったのは足元の良くない工事現場の様なところへ、杖をついても満足に歩けないようなよろよろした人が何人も来ていたことである。さらには大型犬を連れた人も前の方に並んでいた。自分の関心を優先させ過ぎではと私の頭は???である。が行列全体は割り込みもなく静かに順番を待つというところであった。 

  待つこと40分で見ることができた。公開日第二日目の終了時刻に近かったせいか解説者は不在で、列の管理や足元注意を促す人がいるだけだった。石棺は大きくて重く、だが蓋になる上の石は4割ぐらいしか残っていなかった。墓床と蓋になる上石とは墓床にホゾ穴があることから、この穴で位置決をし、このホゾ穴に残っていた漆喰がはガタガタするのを防いだか機密性を保つために目地として塗ったか。棺を置くところは一段高く(2~3cm)なっており加工精度が高そうであった。暗渠を設けて水はけを考え、墓道には小石を敷き詰められ、いろいろな配慮のあとが偲ばれる。 

  新聞記事によるとすぐ隣に牽午子塚古墳があるので、この古墳を太田皇女とすれば、日本書紀に記されている斉明天皇陵とそっくりであり、関係者は牽午子塚古墳は斉明天皇陵に間違いなさそうだと云っているが、宮内庁は指定を変えないと言っているそうだ。なぜなら墓誌が見つかっていないからだとか。過去には、文暦2年(1235)に現在の天武天皇・持統天皇陵を盗掘した際に盗賊たちは詳しい内部状況を描き残した。この記録物は「阿不幾乃山陵記」と言い明治13年京都高山寺で発見され、いろいろ検討された結果、それまで天武天皇・持統天皇陵とされていた見瀬丸山古墳から現在の天武天皇陵・持統天皇陵に変更したことがあります。各地に多くの天皇陵がありますが被葬者埋葬者が確からしいのはこの御陵のみらしい。 

 

現地見学を待つ行列高いところが牽午子塚古墳

牽午子塚古墳入口

今回見つかった古墳

少し拡大したもの

土佐稲荷神社

2010年8月20日 金曜日

 NHKで竜馬伝が放送されていますが、大阪の人からこの頃ちょっとした話題のとこですよと言って、土佐稲荷神社を教えられた。そこで記録的暑さの中18日に行ってきました。場所は地下鉄西長堀駅 西側100m。大阪市立中央図書館のすぐ隣りです。 この辺りは土佐藩邸があったところで、その中にお稲荷様があった。土佐藩の借金を肩代わりした岩崎はその後払い下げてもらい商売をしていたが、一帯を処分して東京へ移った。しかし土佐稲荷だけはそのままにした。現在は三菱の創設者が創業時に大事にした神社であるということからか、三菱グループも大切にしているようでした。(神社のしるし=三菱、玉垣の社名など)。

  慶応四年に堺で起こったフランス兵と土佐藩士とのいざこざで、フランス兵殺害する事件が起こった。その責任を取らされる形で土佐藩士が切腹することになるが、誰が切腹するかを決めるくじ引きがこの神社境内で行われたらしい。その後堺の妙国寺へ送られそこで十一人が切腹した。 堺の妙国寺には今も切腹した藩士たちの遺品が保管されています。またその北側の宝珠院には切腹した土佐藩士十一名の墓があります(堺事件)。 現在は旧藩屋敷内か外かわかりませんが、付近は図書館、区民センター、高等学校などがあります。DSC00577DSC00578 (2)

 

 

 

 

 三菱グループの社名入り玉垣DSC00591(背の高いところが三菱のDSC00589主立った社名入り)

 

 

 

 

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  旧岩崎邸であったことを示す説明と石碑DSC00582DSC00585

泉北すえむら資料館

2010年7月22日 木曜日

 昨日暑中見舞いを投函したついでに足を延ばして、大阪府から堺市へ管轄変えになった堺市立泉北すえむら資料館(元大阪府立泉北考古資料館http://www.city.sakai.lg.jp/shisetsu/bunka/049.html)へ行ってきた。梅雨明け十日と言いますが、4・5日しか立っていない暑い暑い日の日中でした。自転車で行った所為か到着と同時に汗が噴き出したが、よく効いた冷房に救われました。展示物が変わったわけではないので、基本的には展示に変更があるわけではないと思われますが、気のせいか素人にも分かり易くなっていた様おもわれた。以前ここの会議室?の様な所で勉強会が行われていましたが、はっきりしませんが今もつづいて入る様です。回を変えてもっとしっかりしたブログ報告を行いたいと思います。

堺市立泉北すえむら資料館入口付近

堺市立泉北すえむら資料館入口付近

太古の泉北ニュータウンあたり

2010年7月13日 火曜日

 偶然ですが、カシオ電子辞書の日本歴史大辞典をいろいろ見ている時に「陶邑窯跡群」という項に出会った。そこには大阪府の南、堺市、岸和田市、和泉市、大阪狭山市の4市にわたり、泉北丘陵一帯の東西15km南北9kmの範囲に分布するわが国最古最大の須恵器窯跡群の総称。名称は「日本書紀」崇神天皇条に「茅淳県陶邑」(ちぬのあがたのすえむら)とあるところから名づけられている。・・・・・・・・ 略 ・・・・・・・・・・・陶器山、高蔵寺、富蔵、栂、大野池、光明池、谷山池の各地区に区分されており、窯跡の合計は500基を超えておる。大半が泉北ニュータウン造成工事に伴って、大阪府教育委員会などにより発掘調査が行われた。5世紀から9世紀までの須恵器が生産され、時代の変化をみる型式編年の重要な資料となる。 と書かれている。 他に陶荒田神社、陶器山、陶器川、陶器小学校などあり泉北ニュータウンあたりは歴史の古いところでありそうだ。