関西では奈良のお水取(修二会という)が終わらないと春が来ないと古くから言われてきました。そのお水取が3月1日から14日まで東大寺二月堂で行われています(752年から毎年行われ途切れたことがなく、今年は1262回目)。10年余前のことであるが、ほとんどの人は予定した数の松明が上がると帰ってしまいますが、私は少し時間をずらして帰ろうと思い、二月堂の南側の石段を人の流れに逆行して登って二月堂の横に行った。さらに進んで二月堂の山側へ回り建物に近づくと、建物内からの音でなにかしらの様子がうかがえます。何かを見せてお堂の中に入っていく人たちもいましたが。何も持っていない私は寒い中がまんして聞いていると突然 下駄をはいて床板の上を走り回る様な騒がしいが力強い音が堂内から聞こえてきました。これにはびっくり。すべて真っ暗なので何事か全く分かりません。カメラのフラッシュ、携帯電話は禁止。たったこれだけですが松明意外にも何かやってる(本当はこれが主に行なうことらしい)ことを知り満足して帰りました。14日まで行なわれていますのでまだ間に合います。松明のスタートは7時ごろ、場所確保のために早く行っておくことが大切です。火の粉を被ると良いことがあると言われているようです。行ってみようと思う方はチョット調べていかれたらいいと思います。
‘過去の思い出’ カテゴリーのアーカイブ
思い出(東大寺のお水取りのこと)
2013年3月3日 日曜日夏(8月)を振り返る
2012年8月31日 金曜日若い頃は健康で医者に行くことがなかったので、健康保険料は殆んど掛け捨て同様であった。一年間医者通いがなければ健保組合から褒美に粗品をいただけた。粗品は大体台所用品で、結婚する頃は大まかに台所用品が整っていました。
ところが退職して10年余の今日、180cm72kg、血圧120前後と70前後。歯周病系の治療で月1回から2回歯医者へ。いびきがひどく睡眠時無呼吸症候群の疑いありということで一泊の検査入院、家内は夏バテで2~3日ごろごろしたのち夏風邪かなとか言って内科医へ。医療費は1割であるが結構支払った。
運動不足にならないようにやっている散歩は昼間は暑いので夕方1時間ほど出かける。雨の日が少なかったので殆んど毎日歩いた。
カルチャーは月に一度のブログカフェ(ブログのレベル向上のための講座)に出席。
ボランティアは昨年脳梗塞で入院した病院の車椅子のメンテ(空気圧点検、潤滑油さし)に行っている。
小4の孫達を連れて、堺市博物館、や通天閣へ行った。通天閣は意外に人が多く展望階からの下りはエレベータ待ち時間30分と言われ、400余の階段をくだった。大人だけなら経験しないことでしんどかったが面白かった。そして新世界独特の二度づけ禁止のクシカツ屋さんで食べた昼飯が、孫達に大好評であった。
数字の見方が良く分かりませんが、タニタの活動量計では一日の総消費カロリー2200~2400、活動カロリー400~500、脂肪消費量10~20g程。歩数6000~7000歩。8月一カ月間を振り返り我ながら結構動いているなと思っている。これからも健康に気を付けて体を動かすことをしていきたいと思う。
岡山へ行き と 現在の健康報告
2012年4月16日 月曜日岡山へ嫁いだ娘から、一番下の孫が4月に入学するので来てやってな、と言われていたが、これまでどの孫たちの入学にも出向いたことがなかったので、行くつもりはなかった。間近になって病気(脳梗塞)のことが気になり、今度症状が出ると(歌手の西条秀樹さんも最近2回目の発症がありリハビリ中であることを新聞で知っていた。)自力で岡山へ行く事が出来なくなるかも知れないと思い出し、急にではあったが岡山へ行ってきた。
朝電話をして、昼過ぎから車で出かけた。200kmの道のりを休憩を多く取りながら自分で運転して3時間半ぐらいで無事到着した。入学式前夜はランドセルを背負ったり、帽子をかぶったり、名札やその他もろもろいじりまわし明日が待ち遠しい様子であった。 翌朝は正装して両親とともに学校へ行った。私は家の前で写真を撮ることと、学校まで車での送迎が役目。 私の入学は戦後間もない昭和21年4月の国民学校。ランドセルは兵隊さんが持ち帰った背嚢を縫い直して子どもの体に合わせてもらったもの、田舎の木造校舎のガラスは割れ、床の一部に穴が開いていた記憶がある。
折角だからと空いた時間に家内と二人で岡山城へ花見に出かけた。場内の桜はどの桜も満開で休日であればかなりの人出であっただろうと思われた。 天守閣や場内の散策は全く病気のことを気にすることなく普通に動けたことで、健康のありがたさをつくずく思いました。 後遺症が残っていればこうはいかなかったであろう。
昨年8月脳梗塞を発症以来半年余が過ぎた。薬(バイアスピリン)をのむ、減塩で野菜中心、肉より魚の食事、、禁アルコール、水分を良く摂る、適度な運動(毎日約1時間6000歩)をする、などに努め、お陰さまで麻痺は無く、歩く、自転車に乗る、車を運転する、等全く普通の生活ができています。色々心配いただいた方もいますので現状を綴って報告としたいと思う。
一字違うと大違い
2011年6月8日 水曜日先日、早朝のラヂオ放送、1179MHz MBSの 子守康範の朝からてんこもり を聞いていたとき、リスナーからの投書で、番組HPに女性の相棒さんの おだ しずえ さんの「ず」が「す」になっており おだ しすえ と なっています。お出汁吸えと読めるので気になります。とのことでした。さっそく修正しますという子守さんの言葉で終了した。たったこれだけのことだが、小生は過去の失敗を思い出した。
頃は昭和30年代中頃、当時はJRは国鉄と言っていた。東京へ行くには大阪駅から特急か急行に乗っていくのが普通であった。8~9時間ぐらいはかかったと思う。したがって午後9時ごろから12頃までは九州や中国地方からの列車も含めて夜行の東京行き列車が多く走っていた。そんな頃、職場で宿直をしていたある日の夜中、電報配達員さんに起こされた。受け取った電報は所長あてで、文面は「ミトウシヨシスキハラ」となっていた。電文は一字いくらという字数で費用が決まったのでできるだけ短くしたと思う。小生はこれを「ミトウシヨ シス キハラ」と解釈した。みと うしよ さんが亡くなったことを木原さんが知らせてくれたのだと。二十歳すぎの若僧、未熟だが業務としてお知らせしなければと思い、夜中ではあったがどきどきしながら所長(定年少し前で普段は遠くからお顔は見ていても話などしたこともない雲の上の様な存在であった)に電話でれんらくした。しかし思い当たるフシがないとのこと。
翌日午前所長に電報をお渡ししたが、ただ首をかしげるだけでした。ところが間もなく謎が解けました。東京へ予算獲得のための陳情に行っていた「杉原」さんが帰所したからである。陳情後大阪行き列車に乗る前に(前夜)、東京から陳情時の感触を電報で所長に知らせたのであった。正しい解釈は「見通し良し 杉原」であった。電文で「一字開ける」ことやすぎの「濁点(゛)」をいれるのも一字とカウントされていたので経費節減の結果であったのだろう。当時大阪と東京を電話でつなぐ場合も、普通ではなく特急とか急報扱いでも半日ぐらいかかったと思いますし費用も高かったのです。現在では考えられない出来事でした。つい数十年前までこんな生活であった。国内は言うに及ばず世界中へリアルタイムで電話がかけられる今は凄い世の中になったものですね。
地震に思う
2011年3月30日 水曜日奈良からの帰り、ボリュウムを上げてCDを聞きながら帰ってきた。家の近くの自動車屋さんへ寄り、オイル交換を頼んで待っている時のことである。待合室のロビーの遠くのTVで女性アナウンサーが、何処かの自治体の総務課長の様な立場の方に電話でインタビューしていた。内容は分かりませんがしきりに執拗に聞いているようであった。待ち時間が長くなってきたので、新聞でも読もうかとTVの近くへ寄って行って初めて今回の地震を知りました。4時ごろだったと思います。しばらくTVを見ていてようやく内容が理解できるようになった。なんと前代未聞の巨大地震が発生したとのことであった。その時、先刻までCDを聞きながら鼻歌交じりの気持ちであったのが、どこか済まない様な心持になりました。
災害のTV報道
その夜はご多分にもれずTVにくぎ付けになった。以来今日まで涙なしにはTVを見られない。だが取材場所が変わるけれども、どの地域からの映像も津波が押し寄せいろんなものが押し流される場面が殆どであった。数日間はこの状態が変わらなかった。地震による被害は海岸だけで内陸部にはなかったのだろうかと思わせる風であった。過去最大級の地震だから内陸部も被害があるはずと思っていた。新聞には茨城県の内陸部の避難場所は報道されないから物資は届かないとか。同じように地震にあった長野県栄村の報道も全くない。地震発生10日も過ぎて物資が動き出しているが、やはりTVによく映ったところに偏っているようである。報道各社は配慮すべきと思う。
16年前
実は16年前に生家が地震で全壊し、母、おば、従兄弟を亡くしました。生活物資をもって持てるだけ持って震災地へ、公民館で何日も泊まり、崩れた家の解体と資材搬出にも行きました。寝た場所は公民館の入口近くであったので人が通るとすぐ目が覚め、TVカメラが来るとその辺りから館内を狙って映像を撮るなど、落ち着かない場所であった。
そこで思うこと
その頃に思ったこと ①TVによく映るところはどんどん援助物資が来るが放映されないところには来ない。 ②トイレが溢れて問題があった。数多くはほしい。 ③報道は避難所内を撮るときは中の人の感情に思いを働かすべし。 ④インタビューを受けた人から見ると、記者は熱心に聞くが、横から話が入ると全く異なった話しなり、先ほどまでの話は何だったのかとだんだん信用されなくなる。 ⑤ブルーシートが欲しいと言われ、わが家近くのホームセンターでブルーシートを探したが品切れ。長野県の知人に電話し宅配便ですぐに送ってもらって翌日持って行った。品切れ品は遠くの人に頼むべし。 ⑥持参したのは すぐに食べられる寿司とか、手を加えた野菜や食糧、電池、懐中電灯、ポケットラジオ、ホッカイロ、カップめん、干し飯、ウェットティシュウ。 ⑦避難者は病人ではないので、何班にも分けて各班に自治をもたせ連絡、配布、掃除など自分たちでできることは手分けして行うべきと思った。
それにしても前代未聞の原発事故 おおごとにならずに 速く終息することを願うばかりです。
私の高校受験
2011年3月14日 月曜日ずいぶん古い話になるが、この時期になると毎年高校受験のことを思い出します。時は昭和30年(1955)3月。田舎の中学校の卒業式(3月15日)がおわった次の日かその次の日が高校入試だったと思う。神戸の高校を受験したので、神戸に宿泊したが、神戸に親類・知り合いは無かったので、奉公に出ていた兄の親方の家にお世話になりました。その時のことである。
卒業式後大急ぎで必要なものを整え、大きくなった荷物をもって(担いで)兄の店(東尻池)を訪ねた(初めて一人で神戸へ行ったので、両親から道順を書いてもらい、何回も何回も口で教えてもらい心細い出発でした)。店で兄の仕事が終わるのを待って、泊めてもらう家(兵庫区平野・市電終点から10分ぐらいだったか)へ向かった。細い路地裏の奥まったところで、丁度目指す家の前まで来た時におまわりさんに呼び止められた。兄貴はハンチングにジャンバー姿。私は学生服で丸坊主・大きい風呂しき荷物を担いでいる。あやしい二人と思ったのだろう。
荷物の中は文房具や着替え三晩(私の場合三日間試験があった)お世話になるおコメ、そして両親から預かってきた親方にお渡しするお土産等でした。問題はコメ(白米)である。当時は米穀通帳(今の若い方に話しても通じません)で食料を調達していた時代で、コメ現物を持ち歩くのは不法でヤミであるとされていた。ただし、農家の人(私は農家の子)は基本的に米穀通帳はありませんので移動するときは自分が消費するコメを持ち歩いた。(修学旅行で旅館に着いた時大きいシートを広げ、みんなが持ってきたコメを出したことも思い出だします。)
おコメがあるので、いくら事情を説明しても分かってもらえず困っている時、表の気配を感じたのか家の中から奥さんが出てきてくれて事情を話してくれたことでようやくおさまりました。その晩はいろいろあって興奮・緊張がなかなか収まりませんでした。幸い合格でき三年間神戸でいい高校生活を過ごせました。その後兄の奉公先の親方には神戸での保証人や親代りを担ってもらうなど、大変お世話になり感謝しています。
にわとりは巣の中で卵を産みます
2010年8月14日 土曜日テレビだったかかラジオだったか忘れたが、夏休みの子供体験ツアーに「卵拾い体験」が含まれているコマーシャルがが流れている。私にはこの「卵拾い体験」がどうも引っかかる。それは、鶏はどこにでも卵を産むのではなく、ちゃんと巣の中に産むことを知っているからです。
戦後間もなくの頃、卵は貴重品であった。敷地に余裕があれば都会でも2羽3羽と空きスペースで飼った。わが家は田舎の農家であったので、軒下を金網で囲い簡易屋根を作って10羽余が入れる鶏小屋を2~3個所つくっていた。鶏舎?には夜眠る止まり木や水飲み場、餌箱、巣(50cm×50cm・高さ20cm程、中にワラを入れで中央を低くする。大体鶏舎の奥まったやや暗い様な所で、すぐ横に卵をとるために手が入るだけのふた付き穴を設ける。)などが備えられていた。午後入口を解放してやると一斉にカキの貝殻をたたき潰しておいたとこへ行き、争ってこの潰されたカキ殻を食べる。硬くて丈夫な卵の殻ができるそうです。いい加減外をうろつけば鶏舎に戻って止り木にとまって夜の準備。全部戻れば入口を閉めて子供の用事は終わりである。
一鶏舎には大体一羽のオスが入れられていて産れた卵は有精卵です。メスはどこにでも卵を産むのではなく、前述した巣に入って巣の中で卵を産みます。産むとすぐ鳴き声を発する。その声は「コケー コッ コッ コッ コケー コッ コッ コッ・・・・」しばらく鳴きいつの間にか鳴き止んでいる。この鳴き声を聞いてまだ温かい卵をよくとりに行きました。オスが朝一番に鳴くといわれる 「コケコッコー」 とはちがう鳴き方ですぐわかります。
ある期間すると 巣ごもり と言ってメスは卵を産まなくなる期間があります。この時に卵を抱かせると ひな をかえすことができます。
大規模養鶏が行われ、人の都合だけで鶏を飼っているので、鶏舎の中どこででも産卵するように思われそうですが、鶏も本来は コウノトリ や トキ の様に巣の中で産卵し ひな をかえしたりします。
ここまで書いてハタと思いました。実際に土を踏んだこともない鶏が何代にもわたって「品種改良」されてきた結果、どこででも卵を産むようになってしまったのだろうか と。もしそうだとしたら複雑な気持ちになります。 戦後間なしのころの農家の子供の用事として、にわとり担当だったころを思い出しながらつづってみました。
真夏の結婚式で思ったこと
2010年7月26日 月曜日今回は私ごとを述べます。 今風?に言えば、アラセヴンティの私です。われわれ世代は兄弟姉妹が多く、必然的に長子と末っ子ではかなりの年齢差になる。小生の場合長子は昭和5年から末っ子は昭和25年。育った世相は軍国華やかな者から戦後団塊の世代まで。それらの子供たち即ち甥姪達の年齢は50半ばから20歳まで姻族も含めると30余人もいる。職場を卒業して10年余。職場の人たちの結婚も含めて毎年の様に複数の結婚式があり薄給の身にはこたえた。いまでは甥姪達は一部を除きほとんど片付いていて、ここ4・5年は結婚式に出る機会がなかった。
かかってきた電話
梅雨が始まる少し前頃 妹から電話が入った。やや婚期をのがしていた娘の結婚話が整ったので出席してほしいとのことで、日取りは7月25日。とっさに 天神祭 暑い と思った。家内はすぐ衣裳どうしようといったさすはに女性である。場所は神戸の某ホテル。ところが、すべてが整い涼しい中で進行し、外の暑いことを全く忘れていました。
結婚式の変遷
わたしの結婚式に対する最初の思い出は、戦争帰りのおじが昭和22年に結婚した時おちょうめちょうで杯に酒を注いでまわる子供を演じたことである。田舎のことでふすまを開ければ大きな部屋になり大きいほうの部屋には仏壇があるので式や宴会はちょうど仏壇の前で行われた様なものである。婚礼や葬式など大きなお客ごとがあると近所に料理を作ったり段取りを進める組織でもあったのか、すべてが近くで調達され宴席は次の日の朝も、そして学校から帰ってきてもつづいていた。こんなことが昭和35年ごろまで続いたろうか、都会では神社の本殿が式場になり宴席は料亭とか・・・。さらに何とか殿という式場ができ、そこへ神社から神主が出かけ、式も披露宴も其処の会館内で。
新婚旅行
新婚旅行は私の小さいころはなかったように思うが、昭和30年ごろから少しづつはやりだし、有馬、白浜、城崎などが主であったように思う。40年ころは熱海や宮崎が新婚旅行のメッカとなった。大安の日の夕方の大阪駅には必ずと言っていいほど何組かの新婚旅行組がおり、大勢で見送りに来ていた。大人しい組、万歳組や胴上げ組等いろいろ。なぜか必ずと言っていいほど新婦は白い帽子をかぶっていたので、観光地などで帽子を被っているカップルで、いまひとつ溶け込みにぎこちないのは新婚旅行のカップルであると私は決めつけていた。経済成長と対ドル交換比率が進み国内旅行より外国のほうに割安感があり今では新婚旅行と言えば海外旅行を指すぐらいになっている。
末永い幸を願う
昨日の結婚式で最後に二人の弟たちは姉をお姫様抱っこしたり、家族で写真を撮ったりと、久々に家族の絆、肉親の良さに接し、亡くなった親や肉親たちを思いました。そしてこの光景を一番見てやってほしかったのは今は亡き母である。そしてこの幸せが末永くつづくことを願いました。ここまで思い出すままに書きましたが、これも古希を過ぎて年寄りくさくなってきたからでしょうか。