入院していたのこともあり二か月欠席した後のブログカフェに出席し、懐かしい面々にお会いできてうれしいです。出席者が10名で大盛況でした。
お久し振りです
2011年10月20日脳梗塞のこと(2)
2011年10月15日脳梗塞くを発症して24日入院。退院して26日。その間このブログを読んだ人や多くの知りあいから、電話やメール、はがき等で励ましの便りをいただきました。ありがとうございます。近況を記してお礼の言葉に代えさせていただきたいと思います。
体はふらついたり左方へ少し体がよたったりしますが、両手足、言語、視野は正常でほとんど障害が残っていません。したがって家の中での生活は敏しょう性は少なくなったかもしれませんが、風呂、トイレ、洗面など以前と同じです。リハビリの散歩は午後の2kmを欠かさないようにしています。昨日は電車に乗って堺東まで出かけ堺市役所21階から展望を楽しみました。生憎の曇天で景色は今一でしたが、帰路食堂に入ってお昼を済ませて帰りました。ちょっと不安はあるものの無事帰宅できました。駅待ちの時、ホームで線路に近づこうとした時、線路に吸い寄せられる様によたりが生じたときはびっくりしました。不都合と言えばこれ位で全体に敏しょう性はなくなりましたが、杖も用いず行ってくることができました。
一昨日は近くの掛り付けの医院へ行って、脳梗塞で地域の中核病院に入院していたことを話しました。そしてこれからは中核病院ではなくこのかかりつけ医院で薬を出してもらうことになりました。その時発症した時の様子を詳しく話してくださいと言われあの日のことを思い出しながら話しました。8月27日に昔の友人たちと昼食会。その日は夕食を摂らずに少し早く就寝。その次の28日日早朝発症したことを話した。
先生の診立ては、前日の昼食時にアルコールが入った状態で(アルコールは液体ではあるが水分ではなく、逆に利尿作用がある)、夕食もとらず早めに寝た(水分を撮っていない)。夜中にトイレに起きたが水分を摂らずに朝まで。そして8月ですからまだ暑くて汗をかいたであろう。早く言えば軽い脱水状態(血ががどろどろになっている)になって脳の血管がつまるんですよ。と言われた。その後インターネットで調べてみると脳梗塞発症の多くは6~8月の起床間もなくだとか。寝る前とかトイレに起きた時に水を飲んでおけば発症しなかったかもしれないですよと言われました。
ネット内には多くの脳梗塞のことが出ています。脳梗塞を発症すると、以後何回も発症することが多いので気を付けなければいけない。そして発症するたびに重症になる。そうならないためには薬はきっちり飲む、適度な運動、野菜中心の食事、食べすぎない、酒は減らすかやめる。煙草はやめる。高血圧、高脂血しょう、糖尿病、コレステロール等成人病もちはたいへん。
脳梗塞の原因は色々ある様ですが、小生(やや高血圧、やや高脂ですが薬は飲んでいない。糖尿病は無い)の様な場合、、就寝前のコップ一杯の水で防ぐことができるとあれば、大変悔やまれます。いまは再発しないよう頑張るのみです。 いったん脳梗塞を起こすと本人だけでなく、周りの家族も巻き込んで長い長いリハビリ生活が続きます。そのことを考えると脳梗塞をよく知ることで発症を避けられるかもしれません。幸いネットに沢山の脳梗塞情報がでていますから、知識を吸収して脳梗塞にならないよう心がけていただきたいと思います。
脳梗塞発症時のようす
2011年9月30日入院していましたのでしばらく間隔が開きました。これまでも間隔は短いとはいいがたかったが、できるだけ公開をやっていきたいと思います。今回は8月末に脳梗塞を発症した時の様子についてのべます。何かの参考になればいいと思います。
8月末ごろの早朝5時ごろめをさました。こんな時寝床の中で腹這になって本を読んでいた(こんなことはよくある)。しばらくすると眠くなってきたので仰向けになって目をつむっていた。その時何だか気分が悪くなってきた様な気がした。横になっているのに何故と思いながらのでトイレへ行こうとして立ちあがた。バランスが崩れてうまく立てない 「?」 である。だが強引に立ち上がり壁に手を当ててもたれながら壁伝いにトイレへ行った。前日の昼、親しい人たちが寄って昼食会をやった後なので、夕食は食べてなかったから、いくら嘔吐しても出るものがない。寝床へ戻るには四つん這い(?)であった。でもやはり吐き気がする。こんなこと3~4回ぐらい繰り返した。もしや脳梗塞ではと思い、ふとんの上に胡坐をかき手足のしびれを確認したが何ともない。しゃべり方を家内に聞いてもらったがいつもと同じと言う返事だった。これは脳梗塞ではないぞ。また「?」である。そのうちに眠くなってきたので横になった。ところが夜が明けてきたからか天井の照明器具(直径5~60cm)が一つしかないのに左右に広がっては二つに見え、戻っては一つになり、又左右に広がっては一つに見え、視点が定まらない。日曜日でもあるし救急車どうしようか。考えている間に家内がある病院へ電話してくれた。休日であるが内科の外来はやっているということなので、家内に乗せて行ってもらった。家の玄関から車までは何かにつかまりながら自分で乗ったが、病院の玄関から内科までは車いす。私の番がきたので事情を話すと、CT,MRIの撮影。いずれの写真からも異常は認められない。昨夜から何も食べていないので点滴をするがこれが終われば帰宅するようにと言われた。症状が軽くなったわけでもないのに心細いことであった。しかし点滴途中医師や看護師が何回も容体を訪ねてくれ、その時もやはり人差し指が二本の見える事や懐中電灯で目を覗きこんで異常があることを見つけてくれたのか、今夜は入院しましょうと言ってくれた。あの症状のままの帰宅に不安があったが、入院を言われた時はどこかこれで安心と胸をなでおろしました。病室の近くの車いす用トイレでは車いすから便器へ移動するのもたいへんな状態であった。
それから3週間余。先生の診立て、手厚くて行きとどいた看護師さんの看病、リハビリの先生等のおかげをもちまして退院できました。現在は両手足にしびれなし、言葉明瞭、目に異常なしで家の中では殆ど以前と同じ状態で生活できています。リハビリのために家の裏の遊歩道を歩いていますが、時々ふら付いてバランスをくずしたりしますが杖は使わずに歩けています。病院の方々に感謝感謝であります。これからはリハビリに努め早く一人で外出できるようになりたいものと思っています。
大浜公園から全国に向けてラジオ体操が放送されます
2011年8月15日まだラジオが高級品であったころ(昭和初期)、NHKは全国にラジオ塔(街頭ラジオの様なもの)を設置してラジオの普及を図りました(当時の放送はNHKだけで民間放送はありませんでした)。大阪では天王寺公園や堺の大浜公園などです。その大浜公園にこの程ラジオ塔が復元され、記念事業として表記ラジオ体操が堺の大浜公園から全国へ向けて放送されます。8月25日(木)です。朝早いですが興味のある方は大浜公園へ出かけて行ってラジオ体操をやってみませんか。 詳しくは http://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_koho/pub1104/0401_01.pdf等をご参照ください。
もうすぐ堺の大魚夜市! みんなで行こう!
2011年7月21日大魚夜市 : 大阪の夏祭りは、愛染祭にはじまり 天神祭と続き トリは住吉祭で終わる。住吉大社の夏祭の神輿が堺の宿院(神輿の御旅所・堺は住吉大社の氏子)まで渡御する際に、漁師が魚を持ち寄り神前に奉納したことに由来し、およそ700年の歴史を誇る「堺の夏の風物詩」。箸と庖丁で直に魚に触れずにさばく「庖丁式」などの催しや、約400店の夜店など、約20万人以上の来場者で盛り上がります。
場所は大浜公園 : 南海本線「堺駅」から歩いて10分?ぐらい。 夜市に少し遅れて旧堺港周辺で花火の打ち上げが始まります。旧港の周辺からよく見えます。今年は日曜日です。夕涼みを兼ねて家族みんなででかけてはいかがでしょう。
そして次の日(8月1日)は盛大な住吉祭りです。住吉大社を出発した神輿は紀州街道を通って大和川に入り川を南に渡って宿院頓宮(御旅所)を目指す。見ものですよ。
柳沢文庫(大和郡山市)へ行ってきました
2011年7月13日 大和郡山城はかつては大納言豊臣秀長の城であったが、徳川の世の1724(享保9)柳沢氏が転封されてきて以来柳沢氏の居城となり、明治までつづいた。その間、何名かを柳生家の養子に送り、柳生家の継続に役立っています。その柳生家の関係者が、鳥羽伏見の戦いに行く途中、現在の井手町(京都と奈良の中間)あたりで聞いた戦況を認めて藩へ送った手紙が、この程発見され柳沢文庫(郡山城址内)で展示されていることを新聞で知ったので行ってきた。
書状を紹介する新聞記事では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、「終(つい)ニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み・・・・。とあるそうだ。残念ながら私にはくずし字が読めません。145年前の歴史として中学時代と高校時代に習ったことがらであるのに・・・。現代文に翻訳された文がフリカナの様に書いてくれていましたから内容を理解できました。読んでいるうちにその時代に居るかの様な錯覚やら・緊張が走りました。9月18日(日)まで展示してしていますので、興味ある方は柳沢文庫まで行かれてはいかがでしょう。
7年前まで郡山市に住んでいたので懐かしい思いでその辺りを歩いてみた。ここの桜は奈良では名高いところである。20年ほど前長男の入社式が、4月1日に東京新宿であったので一番電車に乗せるため近鉄郡山駅まで家族全員で送った事がある。そのあと朝早くて誰もいない城跡の満開で見事な桜を見た見たことがあります。忘れられない思い出です。今は夏草が生えているところが多いが、ここの梅林も見ものである。梅の実はすべて取られてしまうのですが、なぜか一本だけ色づいた梅の実が鈴なりなのがありました。子どもの頃の様に取って食べてみたいと思いましたが・・・・・。
山口家住宅に季節の花が生けられていますよ
2011年6月13日11日に堺市立町屋歴史館で国の重要文化財である 山口家住宅(国内最古級の民家ーー大坂夏の陣直後の建築ーーで築約400年)へ行ってきました。季節の花菖蒲を生けられていました。もともとからあの紫色が好きな私なので、雨模様で入館者も少なかったのでゆっくりながめてきました。興味のある方は行かれては如何でしょう。季節のものなので何時まで生けられているのか分かりません。(場所はチンチン電車「綾ノ町」の近く堺市堺区錦之町東1-2-31、電話072-224-1155、休:火曜日、入場料:200円。ただし65歳以上、中学生以下、障がい者は無料)
一字違うと大違い
2011年6月8日先日、早朝のラヂオ放送、1179MHz MBSの 子守康範の朝からてんこもり を聞いていたとき、リスナーからの投書で、番組HPに女性の相棒さんの おだ しずえ さんの「ず」が「す」になっており おだ しすえ と なっています。お出汁吸えと読めるので気になります。とのことでした。さっそく修正しますという子守さんの言葉で終了した。たったこれだけのことだが、小生は過去の失敗を思い出した。
頃は昭和30年代中頃、当時はJRは国鉄と言っていた。東京へ行くには大阪駅から特急か急行に乗っていくのが普通であった。8~9時間ぐらいはかかったと思う。したがって午後9時ごろから12頃までは九州や中国地方からの列車も含めて夜行の東京行き列車が多く走っていた。そんな頃、職場で宿直をしていたある日の夜中、電報配達員さんに起こされた。受け取った電報は所長あてで、文面は「ミトウシヨシスキハラ」となっていた。電文は一字いくらという字数で費用が決まったのでできるだけ短くしたと思う。小生はこれを「ミトウシヨ シス キハラ」と解釈した。みと うしよ さんが亡くなったことを木原さんが知らせてくれたのだと。二十歳すぎの若僧、未熟だが業務としてお知らせしなければと思い、夜中ではあったがどきどきしながら所長(定年少し前で普段は遠くからお顔は見ていても話などしたこともない雲の上の様な存在であった)に電話でれんらくした。しかし思い当たるフシがないとのこと。
翌日午前所長に電報をお渡ししたが、ただ首をかしげるだけでした。ところが間もなく謎が解けました。東京へ予算獲得のための陳情に行っていた「杉原」さんが帰所したからである。陳情後大阪行き列車に乗る前に(前夜)、東京から陳情時の感触を電報で所長に知らせたのであった。正しい解釈は「見通し良し 杉原」であった。電文で「一字開ける」ことやすぎの「濁点(゛)」をいれるのも一字とカウントされていたので経費節減の結果であったのだろう。当時大阪と東京を電話でつなぐ場合も、普通ではなく特急とか急報扱いでも半日ぐらいかかったと思いますし費用も高かったのです。現在では考えられない出来事でした。つい数十年前までこんな生活であった。国内は言うに及ばず世界中へリアルタイムで電話がかけられる今は凄い世の中になったものですね。