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ちよょっと奈良市へ そして馬見丘陵公園で道草

2012年4月6日 金曜日

急に奈良まで行く用ができましたので、5日に行ってきました。空模様はよかったが風があり気温の割には寒い日であった。堺から竹ノ内峠を越し広陵町の馬見丘陵公園を目指した。この辺りには多くの古墳があるところで、、この公園はこれらの古墳や池を取り込んだよく整備された大きな公園である。桜には少し早いが花見の人も見かけられた。季節が進んでいろいろの花が咲き樹木が茂れば、その木の下で弁当を開けての家族連れでピクニックができるいい公園である。都会と違って無料の駐車場が十分あります。時季を変えてまた行って見ようと思っています。

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堺の昔の街並みの絵が展示されています

2012年1月6日 金曜日

 堺市の住民で商人であり画家でもあった岸谷勢蔵氏(1899-1980)が残した、昔の堺の様子がわかる絵が堺市博物館で展示されています。なかでも昭和19年(1944)堺市の依頼により、宿院の建物疎開前の景観を描いた疎開地区記録は、戦前の堺の町の様子を知る上で貴重なものだそうです。堺市博物館を訪ねて堺の町の豊かさを見て見ませんか。展示は2月5日(日)まで。展示品解説は1月22日(日)14時から行なわれます。博物館は大仙公園内にあります。最寄駅は阪和線百舌鳥駅より徒歩6分。

もうすぐ堺の大魚夜市! みんなで行こう!

2011年7月21日 木曜日

 大魚夜市 : 大阪の夏祭りは、愛染祭にはじまり 天神祭と続き トリは住吉祭で終わる。住吉大社の夏祭の神輿が堺の宿院神輿の御旅所・堺は住吉大社の氏子)まで渡御する際に、漁師が魚を持ち寄り神前に奉納したことに由来し、およそ700年の歴史を誇る「堺の夏の風物詩」。箸と庖丁で直に魚に触れずにさばく「庖丁式」などの催しや、約400店の夜店など、約20万人以上の来場者で盛り上がります。 

 

 

 

 

 

 場所は大浜公園 : 南海本線「堺駅」から歩いて10分?ぐらい。  夜市に少し遅れて旧堺港周辺で花火の打ち上げが始まります。旧港の周辺からよく見えます。今年は日曜日です。夕涼みを兼ねて家族みんなででかけてはいかがでしょう。

 そして次の日(8月1日)は盛大な住吉祭りです。住吉大社を出発した神輿は紀州街道を通って大和川に入り川を南に渡って宿院頓宮(御旅所)を目指す。見ものですよ。

柳沢文庫(大和郡山市)へ行ってきました

2011年7月13日 水曜日

 大和郡山城はかつては大納言豊臣秀長の城であったが、徳川の世の1724(享保9)柳沢氏が転封されてきて以来柳沢氏の居城となり、明治までつづいた。その間、何名かを柳生家の養子に送り、柳生家の継続に役立っています。その柳生家の関係者が、鳥羽伏見の戦いに行く途中、現在の井手町(京都と奈良の中間)あたりで聞いた戦況を認めて藩へ送った手紙が、この程発見され柳沢文庫(郡山城址内)で展示されていることを新聞で知ったので行ってきた。 

書状を紹介する新聞記事では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、「終(つい)ニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み・・・・。とあるそうだ。残念ながら私にはくずし字が読めません。145年前の歴史として中学時代と高校時代に習ったことがらであるのに・・・。現代文に翻訳された文がフリカナの様に書いてくれていましたから内容を理解できました。読んでいるうちにその時代に居るかの様な錯覚やら・緊張が走りました。9月18日(日)まで展示してしていますので、興味ある方は柳沢文庫まで行かれてはいかがでしょう。

 

7年前まで郡山市に住んでいたので懐かしい思いでその辺りを歩いてみた。ここの桜は奈良では名高いところである。20年ほど前長男の入社式が、4月1日に東京新宿であったので一番電車に乗せるため近鉄郡山駅まで家族全員で送った事がある。そのあと朝早くて誰もいない城跡の満開で見事な桜を見た見たことがあります。忘れられない思い出です。今は夏草が生えているところが多いが、ここの梅林も見ものである。梅の実はすべて取られてしまうのですが、なぜか一本だけ色づいた梅の実が鈴なりなのがありました。子どもの頃の様に取って食べてみたいと思いましたが・・・・・。

山口家住宅に季節の花が生けられていますよ

2011年6月13日 月曜日

11日に堺市立町屋歴史館で国の重要文化財である 山口家住宅(国内最古級の民家ーー大坂夏の陣直後の建築ーーで築約400年)へ行ってきました。季節の花菖蒲を生けられていました。もともとからあの紫色が好きな私なので、雨模様で入館者も少なかったのでゆっくりながめてきました。興味のある方は行かれては如何でしょう。季節のものなので何時まで生けられているのか分かりません。(場所はチンチン電車「綾ノ町」の近く堺市堺区錦之町東1-2-31、電話072-224-1155、休:火曜日、入場料:200円。ただし65歳以上、中学生以下、障がい者は無料)   

玄関に飾られた琵琶

山口家住宅(重要文化財)

 

窓際に生けられた菖蒲

窓際に飾られた菖蒲

 

擁護璽ー津波の怖さを後世に知らせる碑

2011年4月27日 水曜日

 3月11日午後2時46分に宮城県沖を震源とする前代未聞の巨大地震が起こり、三陸から福島県にかけて海岸が壊滅的な被害を受けた。さらに福島県の原発も被害を受け放射能被害が出ている。内陸部は地震の被害、海岸部は地震と津波の被害、原発の近くでは地震・津波・さらに放射能被害がある。以前から地震が起きたら津波被害が出ると言われていた地域であるが、二重、三重と被害が重なり大変お気の毒に思う。

 こんな時、岩手県宮古市重茂半島姉吉地区(本州最東端)に津波に対する注意喚起の碑があるのが報道され話題となっている。

大津波記念碑

高き住居は 児孫に和楽、想え惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな。 

明治29年にも、昭和8年にも、津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、 

僅かに 前に2人、後ろに4人のみ 幾歳経るとも要心あれ。

(この様な内容の碑は、青森県から宮城県にいたる三陸海岸各地に200基ほど建てられているそうです)

 ところで、話は堺市大浜公園は蘇鉄山。ここに「擁護璽」(ようごじ)という碑が建てられている。この碑には

嘉永七年六月十四日(1854)地震があった。114日、5日にも強い地震があり、沖の方が恐ろしく鳴り響き、津波が起って川筋へ激しく入り込み、また引きも激しく、多くの船の碇綱、艫綱切れ、あちこち突きあたって橋は八つも壊れ言いつくせないくらい。地震と津波で多くの家、土蔵が壊れたが、里人たちは神社の広場に集まり避難した。お陰で怪我をしたり死んだ人が居なかったので大変ありがたいことであった。他所の入江や川筋では避難のために小舟に乗って安心していたが、津波によって大船が入込み、下敷きとなって命を落とした者数知れず。

どんなことがあっても、地震が強い時は船に乗って避難してはならない。宝永年間にも今回と同じようなことがあったと聞いている。この様な例で明らかなように、地震が強い時は、津波があることを知るべきである。堺の人びとが無事であったことが有りがたく、産土神の神明宮、三村宮、天満宮にその喜びの幣を捧げ、後の世も災いが無いことを祈って賜ったおしで()をここにまつるのである。(原文は江戸時代の漢字仮名交じり文。現代語訳したものから要約。他の史料では被害が出てらしい。)と書かれている。後世の人々に地震・津波災害への注意を促し、将来も堺の町が無事である様に祈って建立されたものと思われる。

大浜公園にある擁護璽

擁護璽の裏側

これと同じ嘉永七年の地震・津波で大被害を受けた大坂城下の様子は、現在の大正橋東詰に「大地震両川口津波記」なる碑に長文で示されている。木津川や安治川河口に停泊していた千石船が河川を逆流。橋を次々破壊しながら内陸の道頓堀まで運ばれけが人や死者は数知れずとのこと。大地震の節は津波起こらんことを心得、船に乗るべからず。後の人の心得に。

 これらの碑はいずれも災害の大きさ・悲惨さを示し、同じ災害を被らない様後世の人たちの注意を喚起している様に思われる。

地震に思う

2011年3月30日 水曜日

 奈良からの帰り、ボリュウムを上げてCDを聞きながら帰ってきた。家の近くの自動車屋さんへ寄り、オイル交換を頼んで待っている時のことである。待合室のロビーの遠くのTVで女性アナウンサーが、何処かの自治体の総務課長の様な立場の方に電話でインタビューしていた。内容は分かりませんがしきりに執拗に聞いているようであった。待ち時間が長くなってきたので、新聞でも読もうかとTVの近くへ寄って行って初めて今回の地震を知りました。4時ごろだったと思います。しばらくTVを見ていてようやく内容が理解できるようになった。なんと前代未聞の巨大地震が発生したとのことであった。その時、先刻までCDを聞きながら鼻歌交じりの気持ちであったのが、どこか済まない様な心持になりました。

災害のTV報道

 その夜はご多分にもれずTVにくぎ付けになった。以来今日まで涙なしにはTVを見られない。だが取材場所が変わるけれども、どの地域からの映像も津波が押し寄せいろんなものが押し流される場面が殆どであった。数日間はこの状態が変わらなかった。地震による被害は海岸だけで内陸部にはなかったのだろうかと思わせる風であった。過去最大級の地震だから内陸部も被害があるはずと思っていた。新聞には茨城県の内陸部の避難場所は報道されないから物資は届かないとか。同じように地震にあった長野県栄村の報道も全くない。地震発生10日も過ぎて物資が動き出しているが、やはりTVによく映ったところに偏っているようである。報道各社は配慮すべきと思う。

16年前

 実は16年前に生家が地震で全壊し、母、おば、従兄弟を亡くしました。生活物資をもって持てるだけ持って震災地へ、公民館で何日も泊まり、崩れた家の解体と資材搬出にも行きました。寝た場所は公民館の入口近くであったので人が通るとすぐ目が覚め、TVカメラが来るとその辺りから館内を狙って映像を撮るなど、落ち着かない場所であった。

そこで思うこと

 その頃に思ったこと ①TVによく映るところはどんどん援助物資が来るが放映されないところには来ない。 ②トイレが溢れて問題があった。数多くはほしい。 ③報道は避難所内を撮るときは中の人の感情に思いを働かすべし。 ④インタビューを受けた人から見ると、記者は熱心に聞くが、横から話が入ると全く異なった話しなり、先ほどまでの話は何だったのかとだんだん信用されなくなる。 ⑤ブルーシートが欲しいと言われ、わが家近くのホームセンターでブルーシートを探したが品切れ。長野県の知人に電話し宅配便ですぐに送ってもらって翌日持って行った。品切れ品は遠くの人に頼むべし。 ⑥持参したのは すぐに食べられる寿司とか、手を加えた野菜や食糧、電池、懐中電灯、ポケットラジオ、ホッカイロ、カップめん、干し飯、ウェットティシュウ。 ⑦避難者は病人ではないので、何班にも分けて各班に自治をもたせ連絡、配布、掃除など自分たちでできることは手分けして行うべきと思った。  

 それにしても前代未聞の原発事故 おおごとにならずに 速く終息することを願うばかりです。

2月12日、13日に堺刃物まつりがあります

2011年2月5日 土曜日

 堺特産物である堺打刃物のルーツをたどれば、仁徳稜をはじめ多くの古墳が築かれた5世紀にたどり着くそうです。16世紀にタバコが入ってきたころには切れ味が良いことで全国に名をはせ、鉄砲伝来以降は鉄砲の大生産地になりました。現在でも全国的に有名な打刃物の産地であることに変わりがない。プロの料理人の7~8割は堺打刃物を使っていとか。これほど全国的に名高い堺刃物のまつり”堺刃物まつり”堺刃物商工業協同組合連合会の主催で来る2月12日(土)、2月13日(日)堺市産業振興センター(南海電鉄・地下鉄「中百舌鳥駅」すぐ)で開催されます。

包丁・はさみの研ぎなおし(切れ味の鈍った包丁があれば持っていって研ぎなおしてもらえるかも・伝統工芸士の方が新品同様に研ぎなおしてくれるかの知れません?。要実費?)包丁研ぎ方コーナー 魚のさばき方教室リンゴの皮むき・鉛筆削り大会 マグロ解体・即売、 とれとれ市、 特産品即売コーナー  蕎麦打ち実演・販売 太極拳 健康相談 堺工科高校の鍛造品展、 大示阪伝統的工芸ふるさと体験、等 盛りだくさんなイベントも併せて行われます。年に1回の”堺刃物まつり”です。この際、 さそい合わせて行かれ てはどうでしょうか。

牽午子塚古墳は斉明天皇陵かも

2010年12月20日 月曜日

 奈良・桜井市に用ができたので行ってきた。帰路はいつも竹ノ内峠を通って堺へ帰るのであるが、あまりにも天気が良いので遠回りして飛鳥を通って帰ってきた。飛鳥駅近くの農産物販売所へ入っている時、牽午子塚古墳の南東すぐ(20m)隣で古墳が見つかったのでその説明会に行ってきた話をしているのを耳にはさんだ。数日前からニュースで報じていたのを思い出し、現場はこの近くであるし行って見ようと、近鉄「飛鳥駅」へいき場所を聞いた。現場は駅の西側徒歩15分。1時間グライ待つ覚悟で行ってみてはと教えられた。 

  行き来する人が多いので迷うことなく現場に到着。すぐに見学待ちの行列にくわわった。近くの行列の人の話・グループの人たちに当時の人の関係を詳しく解説する人、旅行で飛鳥に来ているが偶然この古墳の説明会を知りその列に加わっていると東京?の知人に電話する人、全く歴史を忘れただ長い列があるので並んでいる人、気になったのは足元の良くない工事現場の様なところへ、杖をついても満足に歩けないようなよろよろした人が何人も来ていたことである。さらには大型犬を連れた人も前の方に並んでいた。自分の関心を優先させ過ぎではと私の頭は???である。が行列全体は割り込みもなく静かに順番を待つというところであった。 

  待つこと40分で見ることができた。公開日第二日目の終了時刻に近かったせいか解説者は不在で、列の管理や足元注意を促す人がいるだけだった。石棺は大きくて重く、だが蓋になる上の石は4割ぐらいしか残っていなかった。墓床と蓋になる上石とは墓床にホゾ穴があることから、この穴で位置決をし、このホゾ穴に残っていた漆喰がはガタガタするのを防いだか機密性を保つために目地として塗ったか。棺を置くところは一段高く(2~3cm)なっており加工精度が高そうであった。暗渠を設けて水はけを考え、墓道には小石を敷き詰められ、いろいろな配慮のあとが偲ばれる。 

  新聞記事によるとすぐ隣に牽午子塚古墳があるので、この古墳を太田皇女とすれば、日本書紀に記されている斉明天皇陵とそっくりであり、関係者は牽午子塚古墳は斉明天皇陵に間違いなさそうだと云っているが、宮内庁は指定を変えないと言っているそうだ。なぜなら墓誌が見つかっていないからだとか。過去には、文暦2年(1235)に現在の天武天皇・持統天皇陵を盗掘した際に盗賊たちは詳しい内部状況を描き残した。この記録物は「阿不幾乃山陵記」と言い明治13年京都高山寺で発見され、いろいろ検討された結果、それまで天武天皇・持統天皇陵とされていた見瀬丸山古墳から現在の天武天皇陵・持統天皇陵に変更したことがあります。各地に多くの天皇陵がありますが被葬者埋葬者が確からしいのはこの御陵のみらしい。 

 

現地見学を待つ行列高いところが牽午子塚古墳

牽午子塚古墳入口

今回見つかった古墳

少し拡大したもの

鎌倉観光

2010年10月15日 金曜日

 鎌倉は古都鎌倉といわれ、名所、神社、仏閣など観るところが多く、江戸時代からの古い観光地である。車で行ったのだが、宿の主は、観たいところは谷戸(やと:谷と言うか山あいとうか、その様なところ)の奥に点在しているので、ガイドブックを持って江ノ電、バス、そして徒歩がいいと勧めてくれたので車を置いて出かけた。コースは成就院、常楽寺、長谷寺、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、建長寺そして江ノ島である。

 戦争による爆撃を受けていないので古い建物がそのまま残っていること、首都圏であるせいか拝観料金(拝観料が関西では400~500円かと思われるところでも200~300円と安く入り易かった)が安いためか意外と人が多かった。という印象を持った。

成就院より由比ガ浜を望む

成就院より由比ガ浜を望む

 

江ノ電極楽寺駅(この電車はすべて単線。主要駅で対向車とかわす様になっている。)

江ノ電極楽寺駅(この電車はすべて単線。主要駅で対向車とかわす様になっている。)

長谷寺山門(この寺には大きな十一面観音があり、奈良の長谷寺と関連があるようです。)

長谷寺山門(この寺には大きな十一面観音があり、奈良の長谷寺と関連があるようです。)

奈良の大仏より小さめ、器量もいまいちと感じた。

奈良の大仏より小さめ、器量もいまいちと感じた。

大仏が金メッキされていたことを示す痕跡がある右頬

大仏が金メッキされていたことを示す痕跡がある右頬

鶴岡八幡宮本殿遠望

鶴岡八幡宮本殿遠望

近くのビルの外壁に描かれていた明治初期の八幡宮

近くのビルの外壁に描かれていた明治初期の八幡宮

台風?で倒れた由緒ある大イチョウの株(しめ縄囲いの中で多数の芽が)と神社

台風?で倒れた由緒ある大イチョウの株(しめ縄囲いの中で多数の芽が出ている)と神社

建長寺の仏殿(禅宗以外の寺では本殿にあたる)

建長寺の仏殿(禅宗以外の寺では本殿にあたる)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
江ノ島の展望塔から藤沢方面を望む

江ノ島の展望塔から藤沢方面を望む