大阪の夏祭りは、愛染まつりに始まり天神まつりで最高潮。そして締めくくりは住吉大社の住吉まつりといわれている。この住吉祭りは8月1日に行われるが表に現れない神事がその前から行われているようだ。数ある神事の一つとして8月1日に神輿が大和川をわたって宿院頓宮(住吉大社のお旅所)に渡御する。また堺では鎌倉時代から大魚夜市が住吉祭りの前日から大浜公園で行われます。興味をお持ちの片、行ってみてはいかがでしょうか。沢山の露天やいろいろなイベントも行われますよ。
大阪の夏祭りは、愛染まつりに始まり天神まつりで最高潮。そして締めくくりは住吉大社の住吉まつりといわれている。この住吉祭りは8月1日に行われるが表に現れない神事がその前から行われているようだ。数ある神事の一つとして8月1日に神輿が大和川をわたって宿院頓宮(住吉大社のお旅所)に渡御する。また堺では鎌倉時代から大魚夜市が住吉祭りの前日から大浜公園で行われます。興味をお持ちの片、行ってみてはいかがでしょうか。沢山の露天やいろいろなイベントも行われますよ。
14・15・16日と諏訪湖方面へ行ってきました。行きの14日と帰りの16日は良い天気だったが肝心の15日は1日中雨でした。14日の夜は辰野町の「蛍まつり」に行きました。天竜川沿いの150m×100mほどの 場所で、きれいな水が流れる水路を縦横につくり、餌となる川蜷を生息させているらしい。まつりの期間中は売店が出るし、駐車場はあるが辺り一帯は車であふれる。場所へは小さな橋を渡るのだがここで観賞料300円を支払います。ところどころに臨時トイレが設置されていた。暗くなりかける7時半ごろから光るのが見える。辺りがさらに暗くなると広い場所一面に無数の蛍が乱舞しているのがわかる。場内には一切明かりはない。約3m幅の順路があり暗くてもはみ出して怪我しないよう策が設けられている。こんなこと初めての経験であり、カメラに収めようと試みたがフラッシュを焚くと光が見えなくなるので困った。結局私の腕前ではまったくだめでした。東京からテレビ朝日のクルー5~6人が来ていろいろな機器を並べ頭を寄せ合っていたが、あの状況をどの程度収録できたのか見てみたいと思います・・・・・・。私の感想:これまで田舎や奈良・泉州で見た蛍は体の後ろ半分が光って辺りを明るくしていたと思うが、信州の蛍はやや小さく、体の最後尾から真後ろに向かって小さい光を出しているようであった。種類が違うようでした。
泊まった宿舎に「万治の石仏」のポスターがあったので撮りました。万博の頃だったと思いますが、岡本太郎さん、新田次郎さんらが絶賛したことから随分話題になり、その頃見に行ったことがあります。今では観光スポットの一つになっています。なぜか異国人風の顔をしています。万治年間の彫刻があるので「万治の石仏」と言うそうで近年自然に首が伸びるとTVで話題になったことがあるそうです。
桜の花の便りが聞こえてくる22日に、奈良に住んでいた頃(10年前までの35年間)の町内の人達が、堺観光に来られたので案内してまわりました。説明というよりは昔のご近所メンバーの中に臨時会員として入れてもらい、わいわい言いながら賑やかに一緒に歩いたといった方が当っている状態でした。説明より雑談が主?で話題はお互いの家族のこと、成長した子供たちのこと、健康のこと、来られなかったメンバーの近況などでした。スケジュールを大幅にオーバーしてしまい、一部を飛ばすことになりました。帰宅後世話役からお礼の電話が入りましたが、「大変好評だったのでコースを変えて2回目、3回目をやって欲しいとの希望があるがどうですか」と言うことでした。ここ2年ほどは脳梗塞、リハビリ、肺がん手術と大病続きだったが、お蔭様でここまで回復し、皆さんに喜んでもらうことができたのが大変嬉しく、感慨一入でしたので、もちろん「OK」の返事をしました。次回の計画が何時なのか今から楽しみにしています。
今 堺市の大仙公園にある堺市博物館 で なんば球場 を本拠にしていた今はなき南海ホークスのいろいろな思い出品を展示しています。田舎育ちの私は小さいころは巨人以外はほとんど何も知らない状態だったのですが、山本(鶴岡)監督、野村、杉浦ぐらいは知っていました。
別所が南海から巨人へ移った経過は知りませんが高校生のころ(昭和30年ごろ)、須磨区板宿町に下宿していた。そのころ下宿のおばさんが「たそがれ時に背の高い日に焼けた人が向こうのほうから頭を下げながら近づいてきたので、誰だろうと思いましたが、すれ違いに挨拶すると別所さんだった。東京へ行ってからは見かけることが少なくなった。」といったいました。南海から巨人へ移ったことをいっていたんだと思います。下宿の一軒置いて隣が別所さんのお宅で、出身校の滝川中学(現在の滝川高校)までは徒歩10分ぐらいのところでした。阪神淡路大震災のあと、かつての下宿を見舞ったが、あたり一帯は建物の形通りの基礎石が残るだけでした。
球場が大阪市内にあり、気軽に行かれた方が多いと思います。一度博物館へいかれてはいかがでしょう。65歳以上の方は何か証明するものを見せれば無料になりますよ。
関西では奈良のお水取(修二会という)が終わらないと春が来ないと古くから言われてきました。そのお水取が3月1日から14日まで東大寺二月堂で行われています(752年から毎年行われ途切れたことがなく、今年は1262回目)。10年余前のことであるが、ほとんどの人は予定した数の松明が上がると帰ってしまいますが、私は少し時間をずらして帰ろうと思い、二月堂の南側の石段を人の流れに逆行して登って二月堂の横に行った。さらに進んで二月堂の山側へ回り建物に近づくと、建物内からの音でなにかしらの様子がうかがえます。何かを見せてお堂の中に入っていく人たちもいましたが。何も持っていない私は寒い中がまんして聞いていると突然 下駄をはいて床板の上を走り回る様な騒がしいが力強い音が堂内から聞こえてきました。これにはびっくり。すべて真っ暗なので何事か全く分かりません。カメラのフラッシュ、携帯電話は禁止。たったこれだけですが松明意外にも何かやってる(本当はこれが主に行なうことらしい)ことを知り満足して帰りました。14日まで行なわれていますのでまだ間に合います。松明のスタートは7時ごろ、場所確保のために早く行っておくことが大切です。火の粉を被ると良いことがあると言われているようです。行ってみようと思う方はチョット調べていかれたらいいと思います。
退院後の体力回復やリハビリを兼ねて少し遠くまで出かけることが多くなっている。先日堺市のセントラルパークとも言われる大仙公園を1時間余り散策した。仁徳天皇陵拝所前には観光の人達が引っ切り無しに訪れていた。また季節がいい所為か公園のあちこちに人々が出ていました。近くに観光案内書があったので入ってみた。堺の土産になるものや、観光用パンフが並べられていた。そんな中に写真の様なパンフレットがあったので頂いてきた。堺が輝いていた慶長(秀吉最晩年ごろから夏の陣)ころの地下遺構を掘ったのでしょうか。11月24日には中百舌鳥駅近くの堺市産業振興センターで講演会が、11月17日から12月24日まで出土品が堺市博物館で展示されます。同時に「発掘された日本列島2012」展が開かれています。 時間のある方は行ってみてはいかがでしょう。
堺市の小学生は社会見学として水処理場、ゴミ処理場、自転車博物館、その他等、学年に応じて色々なところへ出かけています。たまたまではあるが先日堺市役所の21階(高さ84m)の展望ロビーへ行った時、大勢(140~150名ぐらいか)の小学生たちが来ているのに出あった。まずはじめに黄色いユニホームを着た観光ボランティアさんから紙芝居仕立てで東側、西側、北側、南側からどんなものが見えるか説明をしてもらい、後は各自で何が見えたか記録を取るという社会見学の様であった。仁徳天皇陵や大仙公園、大泉公園や方違い神社、長居競技場や北摂の山山、堺市内や阪神高速・堺泉北工業地帯、遠くには須磨、明石海峡大橋、淡路島などが見えます。よく頑張る子、ふざける子、先生やボランティアさんに熱心に尋ねる子など色々でしたが、聞けば小学3年生だそうで、総じてみんな注意事項を守り真面目に見学して行ったなーというのが私の感想です。写真を付しますのでその場の状況を読み取ってください。写真の上にしるしをずらすと手の形に変わりますので、その時クリックすると写真が大きくなります。
長い夏休みも残り少なくなって来ました。そんな1日夏休みをもてあましている孫たちを連れて大仙公園にある堺市博物館へいきました。消費電力を抑えるために8月31日までの火~金は無料にして、多くの人に入館してもらい、省エネに繋ごうとしていました。
展示については高学年の孫だけが興味を持ちましたが、全員で面白く遊んだのは地階にある壊れた焼き物を復元するコーナーでした。すぐ近くには仁徳稜古墳がありますので生きた歴史が学べます。うまくいけば博物館でも仁徳稜古墳でもボランティアさんが開設してくれるかもしれません。宿題まだのお子さんを連れて行くのを考えてみてはいかがでしょう。(堺市博物館は阪和線百舌鳥駅より徒歩5分程度)
JR大阪環状線玉造駅西方500m程の所の三光神社にある真田幸村の大阪城抜け穴を見に行った。TVでも時々放送されるおなじみの抜け穴だが、話の種と思い行った。穴の入口は頑丈な格子戸がはめ込まれ奥は暗くなっていて十分見えない。ホントかな?と思わせられてしまう。近くに近年作られたであろう幸村の銅像が立ち六文銭の盾がしつらえてあり雰囲気を出そうと意を凝らしていた.
この辺りは大坂の陣の真田の出丸の辺りになるのでどうなっているのかなと思い神社の南から西方面へ回って異様な光景にびっくりした。出丸跡らしきものは見られず、何千という墓碑が整然と並んでいたからである。ここは旧陸軍墓地であった。墓地の入口には小さな管理小屋?の様な建物があり、黒い服を着た男性がいたので話しかけてみたところ、普段は誰もいないが国会議員の先生が参拝に来られるで待っているとのことでした。ほんの二言三言の話でしたが明治以来の戦死者を葬ってあり墓碑5300、納骨堂には8000余の遺骨が祀られているとのことでした。第二次大戦後、国が特定のまつりごとをしてはいけないことになっているからか、管理が不十分であることは見てすぐ理解できた。国のために働いたのに・・・・。何だか申し訳ない気持ちになりました
しばらくして黒塗りの乗用車が入ってきた。降りてきたのは自民党国会議員で、イラク湾岸戦争の折、自衛隊第一次派遣隊?の隊長をされた髭の隊長であった。同行の方数名と納骨堂に入り献花されました。こう云う偉い方が献花に来られたということで心の何処にほっとしたものを感じました。
憲法のこともあろうが国のために没した先人に報いるために何とかならないものかと複雑な気持ちでそこを後にしました。一度行って見てはいかがでしょうか。今の日本、これからの日本、そして自分の生き方を考えるのに何かしらの示唆が得られるかも・・・・・・。