このカフェは新米のブロガーが集まって、日常困っていること、技術未熟のため自由に表現できない等を話し合い、レベルアップを狙っている。もちろん技術達者なプロバイダーの方がおられて解決していただける。
場所は泉ヶ丘プールの建物の3F プール・ヴー である。出席者皆和気あいあいのうちに行うことができました。次回も期待と思います
このカフェは新米のブロガーが集まって、日常困っていること、技術未熟のため自由に表現できない等を話し合い、レベルアップを狙っている。もちろん技術達者なプロバイダーの方がおられて解決していただける。
場所は泉ヶ丘プールの建物の3F プール・ヴー である。出席者皆和気あいあいのうちに行うことができました。次回も期待と思います
小生がまだ若い現役のころの40~50歳ぐらいのころのことである。職場に入ってきた若い技術者が数年経つと、ある大学へ転職し卒業研究をさせなければならない学生を抱える教師になった。その後に入ってきた技術者もまた数年で、ある別の大学へ行って教師になってしまいました。多分先輩格になる小生の指導能力が足りなかった所為であると思っている。ここはその後の彼らとの付き合いの話である。
職場を離れた人達ではあるが、訪ねて行ったり、訪ねられたりで顔を合わせることがありました。そんな時は「○○君」とか「△△君」と言って同僚であった頃の様に呼ばせてもらっています。しかし、学生さんが居る時には必ず 「○○先生」、「△△先生」と言って、若い新米の教師を「君」付けではなく「先生」と敬意をこめて呼ぶことにしていた。それは彼ら「先生」に対する礼儀だと思ったからです。
話変わって、平松さんが大阪市長になってからのことである。ラジオ等で平松さんのかつての同僚や友人・知人と思われる人たちが「平松市長」と言わず「平松君」と言い、どれだけ平松さんと親しかったか、あるいはどれだけ平松さんとの距離が近かったかを言いたいだけのように思われることがしばしばあった。辞書には「君」の用いられ方として①統治者、天子、帝王、諸侯等をいう。②ア 尊敬すべき目上の人に付けて呼ぶ。 イ 同輩や同輩以下の人の下に添える語。主に男性に用いる。(広辞苑)とある。ラジオ等で話される内容から推察して②のアではなくイのつもりで使っていると思われるので、もしそうであるならば一般常識から離れているのではないかと思う。放送局にもいろいろな言葉使いの規定があると思うのですが、このようなことについてはどうなんでしょうか。
皆さんはどの様に思われますか.
NHKで竜馬伝が放送されていますが、大阪の人からこの頃ちょっとした話題のとこですよと言って、土佐稲荷神社を教えられた。そこで記録的暑さの中18日に行ってきました。場所は地下鉄西長堀駅 西側100m。大阪市立中央図書館のすぐ隣りです。 この辺りは土佐藩邸があったところで、その中にお稲荷様があった。土佐藩の借金を肩代わりした岩崎はその後払い下げてもらい商売をしていたが、一帯を処分して東京へ移った。しかし土佐稲荷だけはそのままにした。現在は三菱の創設者が創業時に大事にした神社であるということからか、三菱グループも大切にしているようでした。(神社のしるし=三菱、玉垣の社名など)。
慶応四年に堺で起こったフランス兵と土佐藩士とのいざこざで、フランス兵殺害する事件が起こった。その責任を取らされる形で土佐藩士が切腹することになるが、誰が切腹するかを決めるくじ引きがこの神社境内で行われたらしい。その後堺の妙国寺へ送られそこで十一人が切腹した。 堺の妙国寺には今も切腹した藩士たちの遺品が保管されています。またその北側の宝珠院には切腹した土佐藩士十一名の墓があります(堺事件)。 現在は旧藩屋敷内か外かわかりませんが、付近は図書館、区民センター、高等学校などがあります。
三菱グループの社名入り玉垣(背の高いところが三菱の
主立った社名入り)
旧岩崎邸であったことを示す説明と石碑
テレビだったかかラジオだったか忘れたが、夏休みの子供体験ツアーに「卵拾い体験」が含まれているコマーシャルがが流れている。私にはこの「卵拾い体験」がどうも引っかかる。それは、鶏はどこにでも卵を産むのではなく、ちゃんと巣の中に産むことを知っているからです。
戦後間もなくの頃、卵は貴重品であった。敷地に余裕があれば都会でも2羽3羽と空きスペースで飼った。わが家は田舎の農家であったので、軒下を金網で囲い簡易屋根を作って10羽余が入れる鶏小屋を2~3個所つくっていた。鶏舎?には夜眠る止まり木や水飲み場、餌箱、巣(50cm×50cm・高さ20cm程、中にワラを入れで中央を低くする。大体鶏舎の奥まったやや暗い様な所で、すぐ横に卵をとるために手が入るだけのふた付き穴を設ける。)などが備えられていた。午後入口を解放してやると一斉にカキの貝殻をたたき潰しておいたとこへ行き、争ってこの潰されたカキ殻を食べる。硬くて丈夫な卵の殻ができるそうです。いい加減外をうろつけば鶏舎に戻って止り木にとまって夜の準備。全部戻れば入口を閉めて子供の用事は終わりである。
一鶏舎には大体一羽のオスが入れられていて産れた卵は有精卵です。メスはどこにでも卵を産むのではなく、前述した巣に入って巣の中で卵を産みます。産むとすぐ鳴き声を発する。その声は「コケー コッ コッ コッ コケー コッ コッ コッ・・・・」しばらく鳴きいつの間にか鳴き止んでいる。この鳴き声を聞いてまだ温かい卵をよくとりに行きました。オスが朝一番に鳴くといわれる 「コケコッコー」 とはちがう鳴き方ですぐわかります。
ある期間すると 巣ごもり と言ってメスは卵を産まなくなる期間があります。この時に卵を抱かせると ひな をかえすことができます。
大規模養鶏が行われ、人の都合だけで鶏を飼っているので、鶏舎の中どこででも産卵するように思われそうですが、鶏も本来は コウノトリ や トキ の様に巣の中で産卵し ひな をかえしたりします。
ここまで書いてハタと思いました。実際に土を踏んだこともない鶏が何代にもわたって「品種改良」されてきた結果、どこででも卵を産むようになってしまったのだろうか と。もしそうだとしたら複雑な気持ちになります。 戦後間なしのころの農家の子供の用事として、にわとり担当だったころを思い出しながらつづってみました。
堺市民になって6年余、かなり市民らしくなってきたと思うがまだまだ知らないことが多い。その知らないことの一つが大魚夜市である。毎年の様に今年こそは大魚夜市に行こうと思いながら、気が付いたら日が過ぎてしまっていて一年延ばしになっていたが、今年は当日(7月31日)の午後5時ごろ何かのはずみで大魚夜市の日であることに気がついた。おっとり刀よろしく車で家を飛び出し大浜公園を目指した。駐車場のことなど考えずただひたすら大浜公園を目指した。丁度旧市民病院の空き地の横で赤信号にあい停車している時、普段自動車など入っていないこの空き地に多くの自動車が入っているのに気が付いた。臨時駐車場になっていたのである。そしてその中から大魚夜市会場の大浜公園相撲体育館横までシャトルバスが出ていて、トントン拍子に会場へ行き着きました。
セリが始まる7時まで十分余裕がありあたりを探索。メイン会場では神事が行われており、つづいて手を触れないで魚をさばく儀式が行われ、さらに歌や踊りなどいろいろな催しが行われていた。メイン会場内の周辺にはいろいろな団体(各区自治連合会、婦人団体、企業、留学生、その他で約30~40団体)が行うセリ台が約100mに亘って設営され、7時と同時に一斉にセリが始まった。タイ、タコ、イカ、タチウオ、サザエ、カニなどが売られ大変な熱気である。
我が家は南区にあるので、南区セリ台でタイを買いました。
夕食前に家を出たので焼きそばを食べてしのいだ。今回が初めてなので会場をくまなく見て回ろうと隅々まで歩いた。大部分はどこの夜店や縁日にも出ている様な店がほとんどですが、堺名産の刃物屋さんとか、かつての鯨踊りをテーマにしたところもありました。
変わりだねはキックボクシングのリンクがあり試合をしていました。夜市との関係は
分かりません。 大浜公園を出て堺旧港の方へ行くと、8時半から花火があると「ハンドマイクのおじさん」がふれていた。やや時間があるが見て帰ることとした。
大魚夜市はどこを歩いてもすごい人の波で、堺にこんなに人が集まる行事があるとは知りませんでした。明日は住吉大社の神輿が大和
川を渡って堺宿院頓宮までの渡御がある。川渡りが一大見物と思うが残念ながら行くことができません。来年のこの時を楽しみにして待つとしよう。
今回は私ごとを述べます。 今風?に言えば、アラセヴンティの私です。われわれ世代は兄弟姉妹が多く、必然的に長子と末っ子ではかなりの年齢差になる。小生の場合長子は昭和5年から末っ子は昭和25年。育った世相は軍国華やかな者から戦後団塊の世代まで。それらの子供たち即ち甥姪達の年齢は50半ばから20歳まで姻族も含めると30余人もいる。職場を卒業して10年余。職場の人たちの結婚も含めて毎年の様に複数の結婚式があり薄給の身にはこたえた。いまでは甥姪達は一部を除きほとんど片付いていて、ここ4・5年は結婚式に出る機会がなかった。
かかってきた電話
梅雨が始まる少し前頃 妹から電話が入った。やや婚期をのがしていた娘の結婚話が整ったので出席してほしいとのことで、日取りは7月25日。とっさに 天神祭 暑い と思った。家内はすぐ衣裳どうしようといったさすはに女性である。場所は神戸の某ホテル。ところが、すべてが整い涼しい中で進行し、外の暑いことを全く忘れていました。
結婚式の変遷
わたしの結婚式に対する最初の思い出は、戦争帰りのおじが昭和22年に結婚した時おちょうめちょうで杯に酒を注いでまわる子供を演じたことである。田舎のことでふすまを開ければ大きな部屋になり大きいほうの部屋には仏壇があるので式や宴会はちょうど仏壇の前で行われた様なものである。婚礼や葬式など大きなお客ごとがあると近所に料理を作ったり段取りを進める組織でもあったのか、すべてが近くで調達され宴席は次の日の朝も、そして学校から帰ってきてもつづいていた。こんなことが昭和35年ごろまで続いたろうか、都会では神社の本殿が式場になり宴席は料亭とか・・・。さらに何とか殿という式場ができ、そこへ神社から神主が出かけ、式も披露宴も其処の会館内で。
新婚旅行
新婚旅行は私の小さいころはなかったように思うが、昭和30年ごろから少しづつはやりだし、有馬、白浜、城崎などが主であったように思う。40年ころは熱海や宮崎が新婚旅行のメッカとなった。大安の日の夕方の大阪駅には必ずと言っていいほど何組かの新婚旅行組がおり、大勢で見送りに来ていた。大人しい組、万歳組や胴上げ組等いろいろ。なぜか必ずと言っていいほど新婦は白い帽子をかぶっていたので、観光地などで帽子を被っているカップルで、いまひとつ溶け込みにぎこちないのは新婚旅行のカップルであると私は決めつけていた。経済成長と対ドル交換比率が進み国内旅行より外国のほうに割安感があり今では新婚旅行と言えば海外旅行を指すぐらいになっている。
末永い幸を願う
昨日の結婚式で最後に二人の弟たちは姉をお姫様抱っこしたり、家族で写真を撮ったりと、久々に家族の絆、肉親の良さに接し、亡くなった親や肉親たちを思いました。そしてこの光景を一番見てやってほしかったのは今は亡き母である。そしてこの幸せが末永くつづくことを願いました。ここまで思い出すままに書きましたが、これも古希を過ぎて年寄りくさくなってきたからでしょうか。
昨日暑中見舞いを投函したついでに足を延ばして、大阪府から堺市へ管轄変えになった堺市立泉北すえむら資料館(元大阪府立泉北考古資料館http://www.city.sakai.lg.jp/shisetsu/bunka/049.html)へ行ってきた。梅雨明け十日と言いますが、4・5日しか立っていない暑い暑い日の日中でした。自転車で行った所為か到着と同時に汗が噴き出したが、よく効いた冷房に救われました。展示物が変わったわけではないので、基本的には展示に変更があるわけではないと思われますが、気のせいか素人にも分かり易くなっていた様おもわれた。以前ここの会議室?の様な所で勉強会が行われていましたが、はっきりしませんが今もつづいて入る様です。回を変えてもっとしっかりしたブログ報告を行いたいと思います。
堺市立泉北すえむら資料館入口付近
朝早く家内の友人から電話が入った。「地場賑(じばしん)で何かやっているらしいから見にいかへんか」と言うことだった。私はアッシーとして一緒に行った。地場賑には11:00頃着いたところ駐車場はほぼ満員状態だが何とか空きを探して駐車できました。大きい荷物を持って帰る人もチラホラ。会場へ入ると何だかわからないが人がいっぱい居ました。よく見ると古着、骨董、絵画、訳の分からない古い小物、フィルムカメラ等を扱う店が、約2m四方の小間が無数に設けられたその小間の中で商売をしていた。このイベントは堺蚤の市と言い 今回だけでなく定期的に行っていることも分かってきた。場内を回っていると店主との応答など慣れた客も多く見かけられました。小さいころ遊んだようなもの、どこにでもあったような戦争や皇族方の写真入り画報、若いころ欲しかったが高価で買えなかったフィルム写真機(年齢とともに興味もうすれ今ではコンパクトデジカメで十分) など場内を回っていても興味は尽きない。開場は9:00~15:00であるが、9:00から入るには入場料1000円が必要で主に商売人が入る。一般は10:30からで入場料は無料となっている。
堺市は明治の初めころは堺県の県庁であったとよく聞きますが、その証拠?の様なものを堺商工会議所本館裏正面側で見つけました。それは明治12年に堺商工会議所の設置願いに対する許可が堺県から下りたのを記念して造られた記念碑がです。写真をご覧ください。
会場でもらったはがきから、年間スケジュールは写真に示す様なので計画されては如何でしょうか。
先刻突然インタビューを受けることになりとまどいました。どきどきのままインタビューをうけてしまいました。レジュメ5枚目の 記事を書こう 今見ると、5Wの何個のWが埋められていました。 反面わたしは正体をかなりあばかれました。 さすがその道の達人。
先日、南海高野線北野田駅近くに野田城があったということで、城址らしきところを見て歩く機会の恵まれた。場所は北野田駅の東は西除川、南は駅から300mほどのところにある児童公園までうろついた。すべて宅地化されていて石の階段とか石垣などお城を偲ばせられるものには出会えませんでした。しいて言えば、道端の駐車場の端にある大きな楠(樹木医でない小生の推定 めどうり周囲3m以上 樹齢は幹の太さなどから5・700年と見た)があったが、それも落ち葉が少なくなるようにか枝を切られて少々可哀そうに思われた。近くの線路敷地内に写真の様な標柱がありました。それには「南朝野田氏三代の居城」とあった。戦後教育の小生にとって南北朝については習っても深くは知らないので、これから遅ればせではあるがちょっと勉強をしなければと思いました。
近くの線路敷内に横たえられていた標柱